オオヌマズ、ナマズを召す

  • 2020.02.23 Sunday
  • 16:56

 

 2018年、ナマズの新種「タニガワナマズ」が発見され話題となりました。それまで日本には、ナマズ、ビワコオオナマズ、イワトコナマズの三種類のナマズしかいない、とされていました。この内、ビワコオオナマズとイワトコナマズは琵琶湖の固有種ですので、琵琶湖は、日本の全種類のナマズが暮らす唯一の水面でした。

 

 さて、食材としてのナマズですが、米原市の入江内湖遺跡や、大津市の粟津湖底遺跡からナマズの骨が見つかっていますから、縄文人はナマズを捕らえて食べていたことは間違い有りません。田圃の中までも遡って来るナマズですから、続く時代の人達も食べていたと考えられます。栗東の大橋神社では、ドジョウのなれ鮨と共に、ナマズのなれ鮨が造られています。

 

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入江内湖遺跡出土の縄文時代のナマズの骨

 

   ところが、琵琶湖の湖岸におけるナマズの評価ですが、イワトコナマズを食べる地域はありますが、普通のナマズは「あんなもん、どろくそーて、食えん」ということで、殆ど食の対象になっていませんし、川魚屋で見かけることも、ほぼありません。しかし、様々な漁でナマズが混獲されています。これらの捕れてしまったナマズ達は、琵琶湖に帰されるわけではなく、多くが岐阜県に向けて出荷されているとのことです。

 

 確かに、岐阜県には木曽三川のデルタ地域を中心に、ナマズを食べる文化が確かに息づいています。とりわけ顕著なのが岐阜県海津市の「お千代保稲荷」の門前でしょう。ナマズ料理を売りにしているお店が競うように、ど派手な看板を掲げています。オオヌマズも蒲焼きや、柳川などを賞味しました。

 

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お千代保稲荷のナマズ料理屋さん

 

 しかし、肝腎の琵琶湖で琵琶湖のナマズを食べたい。実は若かりし頃、一人暮らしのオオヌマズがナマズをゲットし、家で蒲焼きに挑戦したことがあります。結果。大量の油がたれと共にガスレンジにこびりつき、使用不能にしてしまった苦い思い出があります。

 

 ナマズを食べたい、食べたいと思っていたところに朗報が。東近江市に伊庭という集落があります。伊庭は、集落の中を「カワ」と呼ばれる水路が流れる水郷の景観が残る集落として知られ、この景観が重要文化的景観・日本遺産という文化財に選ばれました。この文化財に選ばれる際の取材で耳寄りな話を聞きました。伊庭のカワには生け簀が造られ、琵琶湖で捕れた魚を畜養し、必要なときに掬って食べるという文化があります。この生け簀を持っている「魚定」(魚定0748-42-1584)さんという料理屋さんが、ナマズも料理してくれるらしい。という情報です。早速、魚定さんといろいろお話をする中で、魚定さんが湖魚料理を得意にしていること、しかも伊庭の近くで捕れる魚を食材としていることも判りました。それならば、ということで創案した料理が「水郷伊庭の漁萬膳」で、この中のメインにナマズ料理を入れて頂きました。「漁萬」とは伊庭の言葉で「魚が捕れすぎて困る状況」を指す言葉です。

 

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伊庭 魚定さんの生け簀

 

 さて、召したナマズのお味は、「美味い」。泥臭さなど全くありません。そして、ほどほどに脂がのり、ウナギ程くどくはなく、さっぱりとした味わいです。実に美味い。何故この魚を近江の人は食べないのだろうか?不思議なことです。「ナマズは泥臭い」「グロテスクだ」という先入観があるのかも知れません。一方「ナマズは竹生島の弁天さんのお使いだから食べない」という話も聞きます。

 

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ナマズを焼く
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ナマズのかば焼き
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ナマズの天ぷら
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ナマズのジュンジュン

今年もナマズ料理を楽しみたいものです。

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明智光秀の湖上焼討ち 1 海津

  • 2020.02.19 Wednesday
  • 20:53

 

 

 元亀3年(1572)7月、織田信長は湖北の浅井長政を孤立させるため、湖北一円に大規模な焼討ちを仕掛けます。そして、これと連動し明智光秀等に、湖岸を湖上からの焼討ちすることを命じます。この作戦は周到に準備されていたようで、同年5月に早くも沖島に命じ攻撃に参加する船を徴用しています。

 

 光秀は沖島、堅田の船を集めこれを囲船(かこいぶね)という戦艦に改造した戦隊を率い湖北に向けて出港します。その最初の攻撃目標は高島市マキノの海津です。

 

  海津は日本海と琵琶湖の結節点として中世に入り発展した港町で、焼討ちの時点では長政の勢力下にありました。また、堅田を支配していた海津衆と呼ばれる地侍達は、浅井氏に対して軍馬を供給したり、姻戚関係を結んだりした、浅井氏を支える武家達でもありました。焼討ちの目的は明確です。長政の経済基盤である海津の港を攻撃し、さらに長政に与する海津衆も攻撃することにより、長政を弱体化・孤立化させることです。

 

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城壁を思わせる海津の石垣

 

 しかし、この作戦がどの程度海津にダメージを与えたのかは疑問です。この時代。海津の港は海津の町の背後に広がる「内湖」が使われ、琵琶湖の湖岸には攻撃の対象となる船は係留されていなかったと考えられるからです。琵琶湖の船の特徴は、どんな浅いところにでも入って行けるように、船底を平らに造るところにあります。波の荒い琵琶湖の湖岸に船を係留するリスクを避けるため、波静かな、クリークや内湖などの水深の浅いところを港として使う選択をした結果です。海津の内湖と琵琶湖とは狭く浅い水路で結ばれていました。内湖の船を攻撃するため、この水路に入り込んだら海津衆の反撃を受けることは必定です。

 

 では、光秀はどのようにして海津を攻撃したのでしょうか。光秀は「火矢・鉄砲・大筒」で攻めたと記録されています。当時の火縄銃の有効射程はせいぜい30m前後。弓にしても同じようなものです。大筒(大砲)はもう少し飛んだかも知れませんが、不安定な船上からの砲撃に命中精度は期待できません。湖上からの焼討ちは海津に対して、直接的なダメージを与えることは難しかったと想われます。

 

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船の出入り口(中の井川の河口)
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琵琶湖と内湖を結ぶ中野井川
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港として使われた海津の内湖

 

 しかし、湖上から放たれる轟音、恐らく陣鐘・陣太鼓も響き渡ったはずです。海津は琵琶湖と共に歩んできた町です。言わば自分達を守る琵琶湖の辰住まう琵琶湖から、悪鬼のような光秀の船団が轟音と共に攻め込んでくる。海津の人達は底知れぬ恐怖に襲われると同時に、織田信長という新たな時代の支配者の登場を実感したのではないでしょうか。 海津に焼討ちを仕掛けた光秀の軍団は、葛籠尾崎を目指し陣鐘・陣太鼓の音共に、悠々と遠ざかって行きます。次の目標は塩津。

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明智光秀と鯖街道(金ヶ崎の退口)

  • 2020.02.15 Saturday
  • 20:50

 

 元亀元年(1570)4月、織田信長は越前の朝倉義景と戦うために、琵琶湖の西岸を北上します。高島郡を通り、若狭に入り、そして敦賀の手筒山城を力攻めで落とすと、これを見た金ケ崎城、疋田城は開城して、越前に撤退してしまいます。いよいよ義景の本拠地、一乗谷に向かって攻め込もうとする矢先、小谷城の浅井長政が信長に反旗を翻し、その背後から襲い掛かかりつつあるとの知らせが届きます。

 

 その知らせを聞いた信長は始めは信じようとしません。「長政はれっきとした親戚で(妹お市の婿)しかも、江北一円の支配を任せてやっているのに何の不足があるのか?嘘だろう」と言いますが、それが真実である報告が次々に入ると「四の五の言っても始まらない。撤退する!」と呻き、京都に向かっての撤退戦を始めます。この「任せてやっている」という信長の認識と長政の「俺は湖北の王だ」という認識に乖離があったようです。

 

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金ケ崎城遠望

 

 この時殿(しんがり)を務めたのが木下藤吉郎で、彼の奮戦により信長は無事京都に帰還することができた、とされていますが、実はこの時に明智光秀、池田勝正も殿を務め、共に活躍していました。秀吉の時代に意識的に光秀の活躍が抹殺されてしまったのです。歴史は勝者が造ります。

 

 信長は、往路の高島郡を通って京都に戻ろうとしますが、高島郡は長政の勢力下にあり、通化することができません。そこで信長は、高島山中の朽木谷を通り京に帰る道を選択し、朽木谷を支配する朽木元網を説得します。元網はこの段階で長政に臣従する形になっていましたが、説得に応じ信長の通過を認めます。朽木氏は佐々木源氏の一族で、足利将軍の奉公衆を務める誇り高き一族です。それが、同族である京極氏の家来から成りあがった浅井氏に従うことには、忸怩たる思いがあった事でしょう。そして信長は足利将軍の名代として義景を攻めた。信長を助けることは将軍を助ける事。朽木元網には、長政を裏切る大義名分がありました。

 

 この時、信長と元網が対面したのが岩神館だったと思われます。光秀もここに入ったかもしれません。岩神館は足利義晴の仮幕府が置かれたところで、見事な庭園(旧秀隣寺庭園)が残されています。

 

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岩神館背面の土塁と堀
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旧秀隣寺庭園(岩神館庭園)


     

 さて、無事朽木谷まで信長を逃がした光秀に新たな命令が降ります。今度は信長に敵対する若狭の武藤友益から人質を取ってくるように命じられたのです。光秀はこの命令を忠実に果たし、向益の母親を人質にとるとともに、武藤氏の城を破壊するという命令以上の成果を上げ、針畑を通り、京都に帰還しました。

 

 若狭と京都を結ぶ街道は後に、鯖街道と呼ばれるようになります。鯖街道は1本だけではありません。若狭と京都を結ぶ道がすべて鯖街道といっても良いのです。運ぶ荷の種類や、要する時間によって街道は使い分けられました。信長が通った安曇川に沿ったルートは、距離は長いものの傾斜が穏やかなのでメインに使われましたが、光秀が2回目に京都への道として選んだ針畑越えは、道は険しいけれども最短のルートとして使われました。

 

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針畑越え

 

 朽木山中の道にも、光秀の物語が隠されています。

 

 朽木山中の光秀・信長の足跡をたどるツアーが2020年4月8日(水)に、京都リビング旅行のアローズ(筍娃沓機檻横毅供檻牽苅隠院砲亮膾鼎燃催されます。

 

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癌封じのケヤキ 東近江市五個荘町伊野部 建部神社境内

  • 2020.02.11 Tuesday
  • 16:50

     

 東近江市五箇荘エリアは近江商人の街として知られています。何故、近江商人が生まれたのか?色々と理由がありますが、この地域は実は、余り水に恵まれないところでした。そばを愛知川が流れているのに?

 

 実は愛知川は、永源寺の谷合を流れている間は豊富な水量を誇りますが、平地に至ると多くの水が伏流してしまいます。さらに平野部の上流には堰が造られ、水を取るので、五個荘付近では、殆ど水がありません。そこで、頼られたのが、愛知川の伏流水です。箕作山の麓にある伊野部は、愛知川の伏流水が箕作山の根っこに当たり、自噴する湧水地に立地しています。村の彼方此方から水が湧き出、いきなり川幅の広い山本川が生まれます。

 

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基礎から湧き出る清水(山本川の水源)

 

 川は一面クレソンに覆われ(昔は芹だったのでしょうが)、その間を清冽な水が流れています。この水の生まれるところに鎮座しているのが、伊野部建部神社で、日本武尊を祭神としています。が、これは後付けで、元々は、生まれ出る水を祀る事に始まった神社なのでしょう。春の五個祭りの際には、山本川の水に頼る下流の集落の神輿が、ここに集結し、この水を生み、配る神にお礼をします。

 

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山本川の青流

 

 この伊野部建部神社は見事な社叢林を形成しています。ケヤキの巨木が本殿を護るように立っています。

 

 ほ〜っと、ぼけ〜っとしながら佇んでいると、異様な気配を感じます。それは、本殿に近い一本から発せられています。ふと、このケヤキを見ると、思わず鳥肌だってしまいます。何故?それは、その太い幹が、異様な瘤に覆われているからです。しかし、その樹勢は旺盛で見事に枝葉を茂らせています。凄い。

 

 オオヌマズは、木に宿るモノに話しかけます。

「あんた、その瘤どうしたん?隣の欅はすべすべで、シュっとしてんのに?」

「知らんがな。何時の頃からか、わしの身体に瘤ができ、こんな感じになってしもたんや。」「あんた、そんな瘤瘤付けて痛ーないん?」

「別に痛いこともあらへんし、見ての通り元気なもんや。ちょっと痒いかな。」

「あんた、もしかしたら、瘤瘤に強い体質なん?」

「ほうかもしれんな。知らんけど。」

「あんた見てたら、何やら元気になるわ。最近わいの身の回りに癌やら腫瘍やらを持っている人が多てな、何とかしてあげたいんやけど、あんたのその力を、その人らに分けたってくれへん?みんな喜ぶんちゃうかな。」

「おう、そんなんおやすい御用や。何時でもおいで、わしに触って、わしの元から生まれた山本川の水に触れたら、できものなんか吹っ飛んでしまうわ。」

「おおきに、おおきに。そこまでゆうてくれるんやったら、あんたを「癌封じの木」ちゅうて、売り出してもかまへん?」

「かまへん。かまへん。最近、神社に来る人も少のうなって、寂しゅう思ってたんや。どんどん人に来てもろて、ここも賑やかになったら、わしも嬉しいわ。」

 

 という会話をしたのが2018年、そして宮司さんにその話をしたところ、なんとこのケヤキは本当に癌封じの御神木に昇格し、しめ縄まで巻いてもらっています。信仰とはこのようなところから生まれるものなのかもしれませんね。

 

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願封じの木2018年
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願封じの木2020年

 

 

 

 

 

 

 

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お祈り2018年

大瀧神社 水の神を祀る(多賀町富之尾)

  • 2020.02.09 Sunday
  • 16:50

 

 大瀧神社は、犬上川の中流の大蛇ヶ淵と呼ばれる激流の上に鎮座する神社で、祭神として高龗神(たかおかみのかみ)と闇龗神(くらおかみのかみ)をお祀りしています。この変わった名前の神様は、いずれも水を司る神で、犬上川の様々な水の姿を神格化したものと考えられます。

 

大瀧神社

 

 犬上川とは変わった名前ですが、その名は「犬」と「神」に由来します。大瀧神社にはこの犬と神を結ぶ神話が伝えられています。

 

 “昔、犬上川の上流に人に災いをなす大蛇が住んでいた。日本武尊の息子である「稲依別王(いなよりわけのおう)」は、この大蛇を退治するため、愛犬の小石丸を伴い、川の上流に分け入った。幾日も彷徨ったが大蛇は見つからない。疲れ果てた稲依別王は川岸の大木にもたれ眠ってしまった。すると小石丸が激しく吠えたてる。稲依別王はなだめるが、小石丸は狂ったように吠え続けた。怒った稲依別王は、刀を引き抜き、小石丸の首を刎ねてしまった。すると、首は大木の梢に舞い上がり、何者かと戦う気配がしたかと思うと、大蛇の首に食いつき、大蛇もろとも川に落ちて流れていった。木の上から稲依別王を襲おうとした大蛇に小石丸はいち早く気づき、危険を知らせるために吠えていたのだ。稲依別王は小石丸の首を刎ねてしまったことを悔やみ、小石丸を手厚く葬った。小石丸が大蛇に噛みついたから犬噛(いぬかみ)、或いは大蛇と小石丸が川の上流に流れていったから犬上、とされ、この川を犬上川、この川が流れる地域を犬上と呼ぶようになった。稲依別王を救った小石丸は、犬上の地の守り神として稲依別王と共に、大滝神社の傍らの犬上神社に祭られている。”

 

大瀧神社の大蛇
大滝神社の狛犬(渦巻く激流)

 

 大蛇とは水の神の化身と考えられます。この神話の裏にあるものは、犬上川(=大蛇)の開発をめぐる人と自然との葛藤の歴史が込められているのでしょう。川の恵みを得ようとする人間(=稲依別王)は、治水・利水の工事(=大蛇退治)を犬上川に対して行うが、それは決して容易なものではなかった。しかし、大きな犠牲(=小石丸の死)を払いつつも、それが完成した。この過程が神話の中に投影されているのでしょう。

 

 穏やかに流れていた犬上川が突然激流に変わり、水は、湖東流紋岩と呼ばれる白く輝く石を引き裂きながら流れ下ります。ここを大蛇ヶ淵と呼んでいます。その名前の由来はここが、勇犬小石丸が大蛇と闘い命を落とした処だからとされています。そして、この激流を見おろすように大瀧神社、そして犬上神社が鎮座しています。川の流れが大きく変化する所、特に瀧は、山上にあった神の世界の水が、人間世界の水に生まれ変わる聖地として、神仏が祀られますが、大瀧神社もその例にもれません。秋、大蛇ヶ淵を見事な紅葉が紅に染めます。

 

大蛇が淵

 

  最近、大蛇が淵の小石丸神話に因み、大瀧神社が犬を始めとするペットの守り神として注目を集めています。このお話はいずれ。

 

 自然と人間の葛藤を神として祀った大瀧神社、2020年3月25日に、大滝神社の神様に詣でるツアー「多賀の里の神様巡り」が開催されます。詳しくは東近江市観光協会<http://www.higashiomi.net/>および大津市勤労者互助会講座案内www.otsu-gojokai.jp/wp-content/uploads/rekishi2.1.pdfにアクセスを。オオヌマズもある目的を持って同行します。

 

犬上神社