鮎とステータス

  • 2020.06.06 Saturday
  • 21:45

 

 前に瀬田川で漁獲された活け鮎が、京都で、法外な値段で供されていた話を紹介しました。何故、鮎? 鯛でも本鮪でもなく鮎です。どうも、京都人にとって、初夏に鮎を食べることは(ただし、家ではなく料亭で)、一種のステータスのようです。では、何故、鮎を食することがステータスなのでしょうか。

 

 秋道智彌さんの御著書『アユと日本人』の中で、興味深い資料を紹介されています。明治時代初期にかかれた飛騨地方(岐阜県)の地誌『斐太後風土記(ひだのちのふどき)』です。ここに記載された鮎の分布から、鮎は河川の一定以上の上流には分布しないことを示したうえで「されど豊年ならでは、上白川までは上らず・・・」「宮川(高山市)へ年魚(あゆ)の登ることは、年によって多少あり、豊年の年には最数多登て、俗に豊年魚と云ふ。高山町の橋々より上までも登ることあれど、其れは稀なることにて・・」と紹介されています。

 

 つまり、鮎は稲作の豊凶と関わりのある魚とされ、豊年の年はより上流まで遡上する、と意識されていたようです。山間で冷涼な飛騨において、豊年の年とは、気候が安定し、比較的高温の夏(今では信じられませんが)と考えられます。つまり、河川の水温が高くなれば、鮎はより上流へ遡上することを示しています。さらに「高山町の橋々・・」の記載ですが、観光客で賑わう宮川の橋の上から川底を見ると、沢山の鮎が川底の岩の珪藻を食んでいるのが、夏なら普通に見られます。どうも明治時代より現在の方が、様々な環境要因により、鮎は分布を広げているようです。

 

 ただし、水温が高ければ鮎が上流まで登るというわけではありません。鮎の分布が広がる大きな要因に「沿岸の水田開発による水の汚染」が考えられます。「水清ければ魚住まず」という格言があります。魚が機嫌よく泳ぐ水は、清浄な水、というイメージがありますが、近年の大阪湾、瀬戸内海の不漁は下水道の整備等により、海水がきれいになりすぎたことが原因の一つとされています。

 

 鮎も同じ事、鮎の餌は川底の石に付着する珪藻類です。珪藻たちは水中に含まれる養分と太陽の光を糧に育ちます。水中に養分がないと、珪藻は育たない=鮎は棲めない。「養分」と言うと上品に聞こえますが、要は「汚れ」「汚染」です。つまり、川がある程度汚染されないと、鮎は暮らせないのです。その河川汚染の最大の原因(現在ではありません)は、沿岸の水田開発による、水田排水の流入だったと考えられます。田んぼの汚れが鮎を呼び寄せる(現在の水田排水による汚染と、古代〜近世にかけての河川汚染とは質も、レベルも違います)。程よい汚染は、生き物を活性化させる。水田の開発が上流に向かえば、アユの遡上する範囲も広がる。つまり「豊年魚」のイメージです。

 

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鮎の生息する川

 

 神武天皇が奈良盆地に侵入しようとして失敗。この時、東征の首尾を、甕を川に沈めて魚が浮くか否かで占います。結果、見事に魚が浮きました。この様子が昭和天皇の即位の際の「万歳旗」に描かれていますが、魚は鮎のようです。支配する土地の象徴が「鮎」です。また、神功皇后が朝鮮半島に遠征する際にも魚釣りで占いをします。結果、コメの餌に鮎が食いつき、成就。ここでも領土の確保と鮎が結び付けられています。

 

 鮎は、領地=耕作可能な土地を象徴する魚のようです。何故?水田開発の広がりと共に鮎は生息域を広げます。鮎が遡上する時期は、田植えから稲の生長期。鮎と稲は共に育ちます。そして、収穫の季節、鮎は川を去り海に戻ります。そして次の年、鮎はまたやって来ます。この生態を見た昔の人は「鮎がはるか海上の他界(神様の世界)より、稲魂を運んで来る」と感じたのではないでしょうか。ここから鮎と水田開発=領土が結び付き、「豊年魚」のイメージも形成されたのだと思います。

 

 稲魂を運ぶ使者と、稔の米を合体させようという心象が当然生まれます。これが「鮎のなれずし」です。鮎を素材とした「鮒ずし」のような食品で、なれずしとしては「鮒ずし」はむしろ異端で、全国的には「鮎のなれずし」のほうが圧倒的に広く分布しています。(鮒ずしの話はいずれ、しつこくさせていただきます)

 

 夏の風物誌に長良川の鵜飼いがあります。鵜を操る「鵜匠」は、古くは織田信長、その後は徳川将軍家、明治に入り有栖川家に属し、そして現在は、皇室に鮎を納める宮内庁職員です。そして、鵜が捕った鮎は「なれずし」に加工して献上されました。何故、鵜匠が鮎を取り献上する特権を得たのか?その底辺には、「為政者は自然をも支配する」という概念があります。野生の動物である鵜と心を通わせ、大地の象徴である「鮎」を取り、これを大地の恵みと合わせて「なれずし」にして食べる。まさに、自然の祝福を受けた支配者の力を具体的に、視覚化・味覚化する行為です。

 

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長良川
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出番を待つ鵜
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鵜匠の特権を示す有栖川家の鑑札
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鮎のすし加工場に掲げられた看板
「不浄の者立ち入り禁止」

 

 鮎は土地の開発・豊穣をつかさどる魚であり、土地の支配者(天皇を頂点として、小は社長さん・戸主まで、ピラミッド状に対象は広がります)が、身に取り込む、地のスピリッツの籠った魚で、食べることにより「地」を支配することを示します。このため、鮎の季節には何としてでも、鮎を食そうとする文化が生まれたのだと思います。それも、宴席という、本来は、神様と交歓する祭事の場の料理として。

 

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鮎のすしを入れて献上した桶

 

 となると、値段は問題ではありません。むしろ高いほうが神様との交流が深まる、という自己満足がうまれ、それに乗じて、自尊心をくすぐるように鮎を供する。これが初夏の鮎の秘密ではないでしょうか。正統なような、歪んでいるような。

 

 6月17日、鮎談義と共に、虚心に鮎を味わいたいものです。初夏の地酒と共に。

  お問い合わせ、東近江市五箇荘「納屋孫」 筍娃沓苅検檻苅検檻横僑械

 

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鵜匠の鮎のなれずし
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鮎のなれずし(近江では一般的ではない。
近年造られるようになった)
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宴席に供された鮎のなれずし(近江では一般的
でない・鮒ずしより安い)
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小鮎のなれずし
(新作なれずし:定着するか否か)

 

 

明智光秀、鱧を饗する 安土饗応膳と鱧

  • 2020.06.05 Friday
  • 17:51

 

 天正10年(1582)、織田信長は甲斐の武田勝頼を倒し、天下布武への道を大きく前進させます。この時、勝頼の遺領分配で厚遇された徳川家康と穴山梅雪は、信長に対する御礼のため、連れ立って安土城を訪問しました。この時の接待役を命じられたのが、明智光秀です。(←2020・03・02アップ「明智光秀と安土城の宴」と同文 http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=28)

 

 さて、この時に光秀がプロデュースした、もてなしの料理メニューの一部が記録として残されています。「天正十年安土御献立」という史料で、5月15日から17日までの3日間で供された9回ほどの接待料理の内、5回分、130種類余りの料理が記載されています。全部が残っていれば、200種を優に超える料理が供されたことになります。この中に御飯類を除き、ダブりは殆どありません。光秀が全てを差配したとしたら、光秀は料理に対する造詣が極めて高かったことになります。(←2020・03・02アップ「明智光秀と安土城の宴」と同文)

 

 これらの料理群には幾つかの特徴がありますが、その一つとして、初めの料理には、海産物の生鮮食品が多いけれども、あとの料理になるほど減って行く傾向があります。考えてみれば当然です。旧暦の五月ですから、現在の暦に置き換えるとほぼ六月。暑さも増し、生鮮物には腐敗の危険があります。この時期、安心して食べられる生ものと言えば、琵琶湖の魚だったのではないでしょうか。確かに饗応膳には琵琶湖の魚がコンスタントに登場しています。

 

 この中にあって、海産物として鯛が度々登場しますが、この中には、鯛の加工品が多く含まれているようです。そしてもう一種類、複数回登場する海産食材があります。鱧です。

 

  鱧は十五日の「をちつき」二の膳に「はむ(鱧)」、十六日の「御あさめし」よ善(朝飯四の膳)に「大はむ(大鱧)」、十六日之夕三膳に「さんせうはむ(山椒鱧)」の三回も登場します。おそらく、何れも生の鱧に、味噌をベースとした「すめみそ」「たれみそ」等の調味液を塗りながら、或いは浸して焼いたものと思われます。「山椒」が最後に登場しますが、山椒が季節の食材であると共に、二日目の晩ですので、鮮度落ちした鱧の臭みを消す効果を狙ったのではないでしょうか。

 

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饗応膳「をちつき」二の膳
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饗応膳「鱧の焼き物・こうたて」

 

 鱧は、鰻科に属する、沿岸部に生息する大型肉食魚で、京料理に欠かせない食材として扱われています。その名前は、よく咬みつくことから「食む」(はむ)が変化した呼称という説もあります。確かに口には恐ろし気な歯がたくさん生えており、活きた鱧を扱う際には十分な注意が必要だそうです。

 

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活〆鱧

 

  この鱧ですが、京都の祇園祭や、大阪の天神祭りには欠かせない食材として知られていますが、一歩関西を離れると、「骨が多くて食べにくい」ということで、かまぼこなどの加工食品の素材としては利用されますが、鮮魚ではほとんどど出回らない、関西好みの食材のようです。確かに、オオヌマズも関西に足を踏み入れるまで鱧は、食したことはありませんでした。

 

 鱧には硬い小骨がたくさんあることから、「骨切」の前処理が不可欠で、骨切専用の「骨切包丁」が料理屋さんの必需品となっています。確かに鱧は美味しい。しかし下処理が面倒くさい。こんな厄介な食材が何故、京料理の定番として定着したのでしょうか。理由は単純です。鱧は非常に生命力の強い魚で、活きた鱧を濡らした紙等で包んでおくと、かなり長時間活きているとのことです。また、白身の魚ですので、鮮度落ちも比較的遅い事もその理由と思われます。

 

 海から離れた夏の京都で、新鮮な海産物を饗しようとすれば、必然的に鱧に行き当たり、この鱧を少しでも美味しく食べるために、骨切の技術が生まれた。また、鱧には梅肉がつきものですが、これも、鮮度が落ちた鱧を安全に食べるために、必然的に生まれた技術かもしれません。

 

 信長は光秀に対して「家康を料理の力で圧倒しろ!」と命じ、これに光秀は最大限に応えました。その一つが、夏の新鮮海産物「鱧料理」だったのではないでしょうか。勿論、現代は冷蔵技術が進歩していますから、様々な調理で鱧を楽しむことができます。

 

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鱧の落とし
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焼き鱧
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焼き鱧と梅肉
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鱧巻き天
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鱧ザク

 初夏の味覚を楽しむ会を2020年6月17日に東近江市五箇荘の「納屋孫」で開催します。様々な初夏の味覚の中には、当然のことながら「鱧」も含まれます(初夏の地酒も)。興味のある方は「納屋孫」0748−48−2631にお問い合わせください。

初夏の味覚「鮎」

  • 2020.06.04 Thursday
  • 08:20

 

 そろそろ各地の河川ではアユ漁が解禁になる季節となりました。

 

 よく知られているように、琵琶湖の鮎は、琵琶湖にいる間は大きくなれず、河川に遡上すると、普通の鮎のように大きくなります。これは、通常食べる餌の種類の違い、と説明されます。つまり、鮎は河川に遡上し、川底の石に着く珪藻類を食べると大きくなり、動物性のプランクトンを食べていると大きくなれない、ということのようです。琵琶湖には大量の鮎が生息していますが、これらの鮎を大きくさせるだけの珪藻の着く石が湖底にないため、致し方なく鮎たちはプランクトンを食べて生活し、大きくなれないまま、その一生を終えます。

 

 琵琶湖に流入する河川に琵琶湖の鮎が遡上すれば、立派に大きくなります。最近は河川の環境が変わったため、琵琶湖からの天然遡上の鮎が大きくなる河川はごく限られているようです。まだ年若き頃(40年近く前)のオオヌマズは、マキノ知内川で、天然遡上の鮎を狂ったように釣りまくったことがあります。

 

  それよりもっと前の時代、鮎たちは多くの河川に遡上し、河川漁業の対象となっていました。その中の一つ、瀬田川の鮎掛け漁(友釣り)を紹介します。

 

 瀬田川では五月下旬から夏の間、船を使った鮎掛け漁がおこなわれていました。鮎掛け漁は、珪藻を食べるようになった鮎が、縄張を持つようになり、縄張に中に入ってきた他の鮎を体当たりして排除する性格を利用した漁で、囮の鮎に掛針を付けて釣り竿の糸に結び付け、川底を泳がせて、野生の鮎が体当たりするのを待つ漁で、現在では、鮎友釣りとして多くのファンを魅了しています。

 

 しかし、昭和三十年代頃まで瀬田川で行われていた鮎掛け漁は、現在の友釣りとは全く異質です。現在の友釣りは、比較的浅い河川で、金よりも高価な細い糸を使い、囮鮎を自由に泳がせて当りを待つ方法が主です。対して、瀬田川の鮎掛けは、船を使い水深が深く、流れも速いところの鮎を狙います。そのため、巨大な錘を囮鮎の鼻先に付けて強制的に囮を川底に沈める方法を採っていました。(詳しくは滋賀県立安土城考古博物館平成25年夏季特別展「華麗なる漁と美味なる食」図録他をご覧ください)

 

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瀬田川の鮎掛け漁
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水中での仕掛
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鮎掛けの錘

 

 さて、首尾よく鮎をゲットすると、タツオケという桶に入れ、しょっちゅう水を入れて鮎を活かして置き、ある程度釣れると上に網を張ったマルオケという桶に入れて川底に沈め、鮎を活かして置きます。そして夕方、鮎を活かしたまま仲買人に販売します。この仲買人は京都からやってきます。そして、活かしたまま出荷され、京都の料亭に運ばれます。

 

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タツオケに水を入れる
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タツオケ
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マルオケ
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タツオケとマルオケマルオケ

 

 漁師が仲買人に売る時の値段ですが、昭和25年頃、大鮎一匹が120円ほどで引き取ってくれたそうです。大工の一日手間が450円程度だった時代の事です。強引に現代価格に換算すれば、何んと4,200円。これが京都の料亭で供されるときには一体、幾らになることか。この時代、夏の漁だけで一年の稼ぎがあったと聞きます。

 

 ただし、売れるのは生きた鮎であることが絶対条件。しかも五月下旬から祇園祭まで。お盆頃まではかろうじて売れましたが、それ以後は売れません。


 生かした鮎を捕る。このために採用されたのが鮎掛け漁です。網でも鮎は捕れます。しかし、網目の魚体が擦れて、漁獲した時点で鮎は死んでしまいます。死んだ鮎は売れません。効率は悪いが高品位の魚を得る漁法、これが釣漁の特質です。

 

  このような話は安曇川でも聞きました。安曇川では鮎を活かして大津まで運ぶため、自転車の荷台に桶を括りつけて、要所要所で水を入れ替えて活かしたり、太湖汽船に積み、船内で水を替えながら活かしたり等、とんでもない労力を費やして出荷したそうです。それでも儲かったのです。また、京都府内の河川でも同様に生かした鮎を運んでいたそうです。

 

 鮎は、全くの初夏の味覚。京都人は、活き鮎に串を打ち、塩焼きにしたものをこよなく愛していたようです。まあ、京都人と言っても、祇園あたりで、一匹何万円も払って鮎を食する階層とは思いますが。

 

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アユの塩焼き
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アユの塩焼き

 

 何故、鮎は高価なのか?それは次回に。

 

 初夏の味覚を楽しむ会が開催されます(2020年6月17日)。無論鮎も登場します。興味のある方は、東近江市五箇荘「納屋孫」にお問い合わせください。0748-48-2631

 

 

梅酒の季節

  • 2020.06.03 Wednesday
  • 11:15

 

 オオヌマズが借りている畑には、二本の梅の古木が立っています。枝が茂ると近所迷惑なので、一昨年の夏、バシバシに枝を切りました。「梅切らぬ馬鹿」と言われますが、切りすぎた大馬鹿。昨年は全く実が着きませんでした。今年の春(2020年)、樹勢を回復したのか、見事に花が咲きました。が、異常気象で、一月には満開になってしまいました。受粉する虫が、居ないやないか?と思っていたら、案の定、「花は咲けども実はならず」たった3圓靴収穫できませんでした。しかも品質もよろしくありません。

 

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今年の梅の花(これじゃ虫さんは来ないわな)
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収穫

 

 それでも、久しぶりに梅酒を漬けることにしました。梅酒の歴史は意外と古く、江戸時代の元禄期に著された『本朝食鑑』に、作り方が記載されているそうです。アルコール度数もさほど高くない酒に、当時としては貴重品の砂糖と共に漬け込んだ梅酒は、薬のような扱いだったのではないでしょうか。

 

 梅酒を定義すれば“アルコール度数20°以上の酒類に梅と糖分を入れ、一定期間熟成させた、新たな発酵が起きない混成酒”ということになります。無免許でアルコール度数20°以下の酒類に漬け込むのは、理由はよく解りませんが、酒税法上NGのようです。尤も、普通の清酒や味醂に梅を漬けこんでも、保存性の問題があり、あまりお勧めできません。

 

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猫の手は借りたくない
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今年の梅酒

 

 さて、新梅を漬けて、貯蔵しようとオオヌマズの部屋の床下収納を開けてビックリ。有るわ、在るわ、とんでもない数の梅酒の瓶が眠っていました。(自分で収納したのですが)梅が豊作な時分、もったいないと思い、漬けた梅酒達です。かなり飲んだり、人にあげたりした筈ですが・・・。一番古いのは1992年ビンテージ。だんだん記憶が蘇ってきました。

 

 前回豊作だったのが2017年。この時、いちびって漬けたのが、世界最強の梅酒。スピリタスというポーランドのスピリッツに漬けた梅酒です。このスピリッツ、穀物とジャガイモを主原料として、70回以上の蒸留を繰り返すことにより、95〜96度という高アルコール度数に仕上げられた、世界最高純度を誇るのスピリッツです。ストレートではとても飲めません。最近、何故か店で見かけませんが、数か月前までは普通に売っていました。

 

 2017年の今頃、スピルタス4ℓに氷砂糖500g程と、3堋の青梅を入れて寝かしました。それが出てきました。推定アルコール度数70°位。まー、めったにお目にかかれない、いちびり梅酒です。酒蔵をあさっていると2002年作「男の梅酒」なる瓶も出てきました。これは、2002年にスピルタスに漬けた梅酒を数年寝かせ、梅を捨てて、新たな梅を漬けこんだ二段仕込みです。アルコール度数は50°位でしょうか。

 

 今度(2020年6月17日)、知り合いの料理屋さんで、初夏の宴を開催することになりました。この時に参加される方々に呑んで頂こうと、数種類の梅酒をボトリングしました。

 

1 世界最強?梅酒 推定アルコール度数70°

2 2002古酒ノーマルタイプ

3 2002古酒ブランデータイプ

4 1999スペシャルビンテージ

 

の四種類です。味は?オオヌマズとしては、いずれもかなり「いける」と思います。ただ、オオヌマズの梅酒は氷砂糖を規定の三分の一程度しか入れないので、色合いが淡く、かなり辛口です。

 

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\こ最強?梅酒
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2002古酒ノーマルタイプ
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2002古酒ブランデータイプ
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1990スペシャルビンテージ

 

 興味のある方は、東近江市五箇荘「納屋孫」にお電話してみてください。参加できるかもしれません。電話0748−48−2631

 

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スペシャルな梅酒達

 

 

万葉集巻十六−三八二九 ドロズの原型を味わう

  • 2020.05.17 Sunday
  • 14:22

 

 

  醤酢に 蒜搗き合てて 鯛願ふ 吾にな見えそ水葱の羹

    醤酢(ひしおす)に 蒜搗(ひるつ)き合(か)てて 鯛願(たいねが)ふ 

      吾(われ)にな見(み)えそ水葱(なぎ)の羹(あつもの)

                 長意吉麻呂[ながのおきまろ](万葉集巻十六−三八二九)

 

 万葉集のこの歌は、古代の食生活を解説する上でよく引用される、大変に有名な歌です。大意は「醤に酢を混ぜ、ここに野蒜を刻み込んだたれで和えた、高級で美味しい、鯛の膾を食べたいと願っている俺様に、貧乏くさい水葱の吸い物なんか食わしてくれるな。現実が侘しく思えるやないか」 といった感じでしょうか。

 

 何故、突然に万葉集を引用したのか?前回の食の小部屋でドロズの話をしました(http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=51)。ドロズ(酢味噌)は、味噌と酢を混ぜた調味料です。現在の味噌の原型は「醤(ひしお):食品と麹と食塩を混ぜて発酵させた、味の濃い調味料」です。使用する食品により、様々な種類があったとされていますが、米・麦・大豆を主原料とした醤から味噌が生まれた、とされています。

 

 この歌に登場する醤がどの様なものかは、厳密にはわかりませんが、現在の醪味噌や、金山寺味噌が近いのではないかと思います。この醤に酢を混ぜるわけですからドロズと一緒です。そして、ここに蒜を和えています。

 

 蒜は、においの強い野菜といった感じで、ニンニクや野蒜がそれに当たる、とされていますが、ニンニクでは現代的すぎるので、野蒜が適当かと思います。

 

 度々ドロズが苦手、と公言しているオオヌマズですが、ドロズのルーツには興味があります。幸い、近くの土手には野蒜が結構生えています。思い立って「意吉麻呂」さんが願った鯛料理を復元してみることにしました。

 

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野蒜
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野蒜を引っこ抜く

 

  <レシピ>

 

野蒜・・・・・道端から引っこ抜いてきたもの。分量適当。

 

醪味噌・・・スーパーで普通に売っているもの。分量適当。

 

酢・・・・・・米酢。分量適当。

 

  <作り方>

 

「蒜搗き合てて」をどう解釈するか?一つは、野蒜、醪味噌、酢を混ぜてペースト状になるまで擂り潰す。一つはお手軽に野蒜を微塵切りにして、醪味噌と酢と和える。あれこれ考えるのは面倒なので、両方作ることにしました。何れも分量は適当。

 

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茎を切って洗う
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きれいに掃除
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すり鉢に入れる
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すり下ろす
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微塵切りの野蒜と材料を入れる
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和える

 

 調味料ができたら、鯛です。この鯛を火を通した鯛と解するか、生の鯛と解するのか議論がありますが、「食べたくて食べたくてたまらない」という、意吉麻呂さんの心情を汲めば生の鯛でしょう。つまり膾(なます)です。膾は「人口に膾炙」という表現がある通り、美味しい料理の代表で、肉や魚を刻んで調味料と和えた料理、と考えられています。「タタキ」や「ナメロウ」のような料理でしょう。

 

 スーパーで特価の刺身用養殖鯛をゲットして刻みます。おそらく古代の人は、かなり強めの塩で締めた生の鯛を使ったと思います。刻んだ鯛に先ほど作った2種類の醤酢をそれぞれ混ぜて出来上がり。

 

 それだけでは面白くないので、普通の刺身に調味料をそれぞれ載せて召しました。

 

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ペースト醤酢膾
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粗混ぜ醤酢膾

 

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ペースト醤酢造り
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粗混ぜ醤酢造り

 

 感想:結構旨い、というか、かなり旨い。甘みのある醪味噌に、酸味が程よくマッチして優しい味。ここに少し臭みのある野蒜が刺激的に味を締めてくれます。新しいお造りの世界が広がったような、物凄く得をした気分になりました。この醤酢、このまま舐めても酒のあてに十分です。野蒜が効いています。ペースト状にすり潰したもののほうが、味がまろやかに感じました。

 

 酒は日本酒。淡麗辛口の純米吟醸と、山廃純米を用意しましたが、醤酢の味が濃いので、淡麗辛口のほうが口中がさっぱりして、食が進みます。反対に山廃は、酒の濃さと醤酢の味の濃さが主張しあっているような感じで、落ち着きませんでした。

 

 結論:味噌と酸味のコラボも案外といけることが解りました。でも、山葵醤油と一緒に出されたら、山葵醤油を選択するでしょう。両方比較しながら食の文化を楽しむ。これが正解かと思います。或いは前菜に少量供するのも面白いかと思います。

湖魚料理とドロズ(酢味噌)

  • 2020.05.14 Thursday
  • 20:53

 

 2020.01.15発、食の小部屋で、フナのお刺身を紹介しました(http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=10)。この中で、オオヌマズは酢味噌(ドロズ)が苦手であることも白状しました。何故か、お造りを始めとする琵琶湖の魚料理には、ドロズがたびたび登場します。

 

 春から初夏にかけての湖魚のお造りに「コツケ」があります。コイやフナの「造り」、もしくは「洗い」に、魚をおろす際に取り分けておいた魚卵を茹でて、ほぐしてまぶす料理です。ただでさえ淡水魚を生食する地域は少ないのですが、近江では、ここに魚卵をあえて食べるのです。卵をつけるから「コツケ」、地域によっては「コマブシ」という所もあります。オレンジ色の粒粒が身に絡まった、見た目にも華やかな、近江独特の料理です。

 

 ところが、ほとんど例外なく、コツケにはドロズが一緒に登場します。スーパーでもコツケが出ることがありますが、この時も、必ずバック入りのドロズがお供しています。

 

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コツケの作り方1魚卵を茹でる
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コツケの作り方2水にさらしてごみをとる
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コツケの作り方3何度も水にさらす
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コツケの作り方4晒にとって再び茹でる
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コツケの作り方5きつく絞る
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コツケの作り方6ほぐす
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コツケの作り方7フナにまぶす
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出来上がり
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卵だらけのコツケ

 

 先に紹介した沖島の漁師料理の「フナのジョキ」にもドロズがついてきます。お造りだけではありません。琵琶湖名産のホンモロコの白焼きにも、ドロズがかけられて供されますし、ハスの塩焼きにもドロズが添えられます。

 

 ドロズは不味くはないと思うのですが、味が強すぎて、折角のお魚のうまみを壊してしまうような気がします。そこでオオヌマズは、お造りや焼き物にドロズが添えられてくると「すんません、お醤油、出来たらショウガ醤油ありませんか?」と、小声でお願いするのを常としています。一度、ドロズと生姜醤油もしくは山葵醤油で食べ比べてみてください。きっと、おいしく感じられると思います。

 

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ジョキのドロズ和え

 

 何故、近江人は、ドロズに固執するのでしょうか?ドロズとは白味噌(米を多く使い、短期熟成させた甘みの強い味噌)に砂糖と、酢を混ぜて作ることが多いようです。ただでさえ甘い白味噌に砂糖を入れるのですから、より味が濃くなってしまいます。ドロズが愛好される理由の一つには、味の濃い調味料で淡水魚の泥臭さを誤魔化す、ということが考えられます。しかし、新鮮な湖魚の料理には、所謂「泥臭さ」は感じません。「淡水魚は泥臭い」という先入観が、そうさせているとしか思えません。

 

 もう一つの理由は、醤油が新しい調味料である、ということが考えられます。醤油が登場するのは16世紀後半から17世紀頃とされています。つまり、信長も光秀も醤油なしの食事をとっていたわけです。醤油は基本的には味噌と同じような作り方をしますが、もろみを絞った液体です。これに対して味噌は極論すれば、もろみをそのまま食べる調味料です。絞れは滓が出て滓は捨てられますが、もろみを食べるのであれば、何も捨てるところはありません。つまり、醤油は味噌に対して手間もかかるし、捨てる部分も出る、高価な調味料である、ということになります。このため、醤油が一般に普及したのはごく新しいことで、農村部にまで普及したのは、戦後の事とも考えられます。

 

 これに対して味噌は、万葉集の時代には確実にありました。酢も同様です。まして、農村では自家製の味噌(手前味噌)が普通に作られていましたから、最も手に入りやすい調味料であった、ということが言えます。つまり、味噌、酢という古い調味料文化が定着し、これが当たり前となっていたから、ドロズがどこにでも登場することになったのではないでしょうか。

 

  料理は文化です。文化は変化します。ドロズにしても元々は赤味噌に酢を混ぜていたと思います。暮らしが豊になるとともに、砂糖が手に入るようになり、甘みが加わり、ベースも高価な白味噌が、赤味噌にとって替わった。そんな流れがあるように思えます。であれば、この流れを尊重しつつも醤油に登場していただく。或いはフルーツと醤油の組み合わせ等、新しい食文化を生み出してもよいのではないでしょうか。食には、選択肢がたくさんあったほうが楽しいと思います。

 

鰉(ひがい)を召す

  • 2020.03.21 Saturday
  • 23:00

 

 明治23年(1890)4月9日、琵琶湖疏水の開通式に参加された明治天皇が、滋賀県庁で昼食を摂りました。この時、瀬田の磯田清右衛門が琵琶湖特産の「ヒガイ」を献上したところ、明治天皇はヒガイをことのほか気に入られ、東京に帰ってからも、度々お取り寄せしたそうです。初めの頃は、電報で注文があると、目の下5寸以上の生きたヒガイを100匹取り寄せ、清右衛門自らが漁夫と共に急行列車に乗り込み、水をゆすって酸素補給しながら運んでいました。途中でヒガイが弱ると急行列車を停車させ、水を取り替え、皇居まで運んだそうです。明治天皇はとてもヒガイを好まれたようで、注文が月に3、4回にも及んだことから、生きたままの運送から、「大膳職御用達ひがい」と書かれた箱に氷を詰め、ここにヒガイを入れて運ぶようになったそうです。

 

 度々の天皇からの注文を光栄に思った清右衛門ですが、ヒガイに漢字名がありませんでした。そこで、時の県知事、籠手田安定(こてだあんじょう)と図り、魚偏に天皇の皇の字を付して「鰉」を用いるようになったと伝えられています。

 

 その後、鰉は琵琶湖の重要魚種として盛んに漁獲されました。主な漁法としては堅田の漁師が得意とした「ナガシバリ(延縄漁)」や、モジと呼ばれる筌(罠)を沈めて捕る漁などがありました。しかし、琵琶湖の水質の変化により漁獲量が減った事、鰉自信が骨が固く食べにくいことが嫌われ、現在ではこれを狙って捕る事は全くなくなってしまいました。従って、幻となってしまった食材が鰉です。

 

 オオヌマズが2017年に『琵琶湖八珍−湖魚の宴絶品メニュー』を上梓した際も、鰉をゲットすることができず、その料理も紹介できませんでした。

 

01ヒガイモジ(魚が入ったら出られなくなる罠を近江ではモジと呼ぶことが多い。たくさんのモジを延縄のように沈める。).JPG
ヒガイモジ(魚が入ったら出られなくなる罠を近江ではモジと呼ぶことが多い。たくさんのモジを延縄のように沈る。)
02ヒガイモジ(正面から見た。このカエリが魚を閉じ込める。).JPG
ヒガイモジ(正面から見た。このカエリが魚を閉じ込める。)

 

 しかし、最近立て続けに鰉を召す機会に恵まれました。一つは沖島のおばさまたちの料理の中に登場した鰉。数が足りなくオオヌマズの分は無かったのですが、同行した若者達が、鰉に拒絶反応を示し食べなかったので、それをゲット。

 

03ヒガイの焼き浸し(沖島).JPG
ヒガイの焼き浸し(沖島)

 

 それから大津市の「からっ風」という料理屋さんで、2回連続で鰉を召す機会を頂きました。料理は何れも「焼き浸し」。鰉を白焼きしたものを三杯酢に浸したものです。

 

 お味は、白身のもっちもちとした独特の触感で、ほんのりと甘みのある上品な味わいです。さらに、ほのかなお酢の酸味が白身のあっさりとした味わいを引き立たせてくれます。明治天皇が好んだのも郁子(むべ)なるかな。ただし、身離れは良いのですが、骨はかなり硬くて、モロコのように丸ごと食べるには少々骨が折れます。

 

04ヒガイの焼き浸し(からっ風).JPG
ヒガイの焼き浸し(からっ風)
05ヒガイのお顔.JPG
ヒガイのお顔

 

 現代人は小骨を嫌うようで、このことが鰉を食べなくなった最大の原因かと思います。魚には骨があるもの。それは当たり前のこと。この当たり前のことが受け入れられなくなっている現代って、何か変な気がします。旨いものは旨い。この旨さに多くの人達が気付いてくれれば、鰉も食材として復活し、この鰉が機嫌よく生きる琵琶湖を取り戻すことにつながるのかもしれません。ともあれ、おいしい鰉を育ててくれた琵琶湖へ感謝。

 

 

オオヌマズ、ナマズを召す

  • 2020.02.23 Sunday
  • 16:56

 

 2018年、ナマズの新種「タニガワナマズ」が発見され話題となりました。それまで日本には、ナマズ、ビワコオオナマズ、イワトコナマズの三種類のナマズしかいない、とされていました。この内、ビワコオオナマズとイワトコナマズは琵琶湖の固有種ですので、琵琶湖は、日本の全種類のナマズが暮らす唯一の水面でした。

 

 さて、食材としてのナマズですが、米原市の入江内湖遺跡や、大津市の粟津湖底遺跡からナマズの骨が見つかっていますから、縄文人はナマズを捕らえて食べていたことは間違い有りません。田圃の中までも遡って来るナマズですから、続く時代の人達も食べていたと考えられます。栗東の大橋神社では、ドジョウのなれ鮨と共に、ナマズのなれ鮨が造られています。

 

01入江内湖遺跡出土の縄文時代のナマズの骨.JPG
入江内湖遺跡出土の縄文時代のナマズの骨

 

   ところが、琵琶湖の湖岸におけるナマズの評価ですが、イワトコナマズを食べる地域はありますが、普通のナマズは「あんなもん、どろくそーて、食えん」ということで、殆ど食の対象になっていませんし、川魚屋で見かけることも、ほぼありません。しかし、様々な漁でナマズが混獲されています。これらの捕れてしまったナマズ達は、琵琶湖に帰されるわけではなく、多くが岐阜県に向けて出荷されているとのことです。

 

 確かに、岐阜県には木曽三川のデルタ地域を中心に、ナマズを食べる文化が確かに息づいています。とりわけ顕著なのが岐阜県海津市の「お千代保稲荷」の門前でしょう。ナマズ料理を売りにしているお店が競うように、ど派手な看板を掲げています。オオヌマズも蒲焼きや、柳川などを賞味しました。

 

02お千代保稲荷のナマズ料理屋さん.JPG
お千代保稲荷のナマズ料理屋さん

 

 しかし、肝腎の琵琶湖で琵琶湖のナマズを食べたい。実は若かりし頃、一人暮らしのオオヌマズがナマズをゲットし、家で蒲焼きに挑戦したことがあります。結果。大量の油がたれと共にガスレンジにこびりつき、使用不能にしてしまった苦い思い出があります。

 

 ナマズを食べたい、食べたいと思っていたところに朗報が。東近江市に伊庭という集落があります。伊庭は、集落の中を「カワ」と呼ばれる水路が流れる水郷の景観が残る集落として知られ、この景観が重要文化的景観・日本遺産という文化財に選ばれました。この文化財に選ばれる際の取材で耳寄りな話を聞きました。伊庭のカワには生け簀が造られ、琵琶湖で捕れた魚を畜養し、必要なときに掬って食べるという文化があります。この生け簀を持っている「魚定」(魚定0748-42-1584)さんという料理屋さんが、ナマズも料理してくれるらしい。という情報です。早速、魚定さんといろいろお話をする中で、魚定さんが湖魚料理を得意にしていること、しかも伊庭の近くで捕れる魚を食材としていることも判りました。それならば、ということで創案した料理が「水郷伊庭の漁萬膳」で、この中のメインにナマズ料理を入れて頂きました。「漁萬」とは伊庭の言葉で「魚が捕れすぎて困る状況」を指す言葉です。

 

03伊庭 生簀の魚を抄う.JPG
伊庭 魚定さんの生け簀

 

 さて、召したナマズのお味は、「美味い」。泥臭さなど全くありません。そして、ほどほどに脂がのり、ウナギ程くどくはなく、さっぱりとした味わいです。実に美味い。何故この魚を近江の人は食べないのだろうか?不思議なことです。「ナマズは泥臭い」「グロテスクだ」という先入観があるのかも知れません。一方「ナマズは竹生島の弁天さんのお使いだから食べない」という話も聞きます。

 

04ナマズを焼く.JPG
ナマズを焼く
05ナマズのかば焼き.JPG
ナマズのかば焼き
06ナマズの天ぷら.JPG
ナマズの天ぷら
07ナマズのジュンジュン.JPG
ナマズのジュンジュン

今年もナマズ料理を楽しみたいものです。

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イサザと葛籠尾崎湖底遺跡

  • 2020.01.22 Wednesday
  • 20:39

 

 大正13年(1924)、長浜市尾上(おのえ)の漁師さんが、琵琶湖の北端近く葛籠尾崎(つづらおざき)の東で、イサザを捕るチュウビキ網漁をしていました。チュウビキ網漁とは、湖底近くにいる魚を大きな袋網を太いロープの重さを利用して湖底に沈め、これを曳いて捕る漁で、地曳網を小型にして琵琶湖の沖合で行う、琵琶湖の漁としては大がかりな漁です。この日、船に引き上げる網に不思議な手応えがありました。網の中に黒い塊が入っている。みると、それは古い焼き物のようです。その後、いくつもの焼き物が湖底から曳上げられました。この価値に気付いたのが、地元尾上の考古学者、小江慶雄先生でした。先生は、引き揚げられた焼き物が縄文時代から平安時代の土器であることを見抜き、この湖底が、それまで誰も考えてもみなかった「湖底遺跡」であることを明らかにしたのです。「葛籠尾崎湖底遺跡」の発見です。

 

イサザビキ漁

 

 縄文時代から沈んでいる土器達が、何故、大正13年を境に次々に曳き上げられたのでしょうか?それは、この時代に漁具の改良があったからです。イサザは、冬になると、水深40mほどの湖底に群れます。この群れを網で曳き捕る訳ですが、効率よくイサザを捕ろうとすれば、太く長いロープ(現在のイサザ網は500m程のロープを使います)と大きな、しかも目の細かな網が必要です。このような大型の漁具は、機械を使ってロープや網を造ることが出来るようになるまでは誂える事ができませんでした。文明力により、大型漁具を手にした漁師さんは、これまで手が出せなかった、いかにもイサザが群れていそうな屑籠尾崎の深場に始めて網を入れました。その結果、1万年余り、薄暗い湖底で眠りについていた土器達が、突然起こされ、眩しいお日様と再会したわけです。漁具の改良が、世界的に見ても珍しい湖底遺跡の発見につながったのです。

 

ジュンジュンを待つイサザ

 

 こうして捕られたイサザは、琵琶湖固有の小さなハゼの仲間で、無論「琵琶湖八珍(びわこはっちん)」のメンバーです。イサザは、様々な料理に使われますが、鰓の部分がやや硬いので、口に当たる場合があります。しかし、脂との相性がとても良いので、唐揚げにすると骨の旨味が出て、ショリショリと美味しく食べることができます。イサザと言えば「イサザのジュンジュン」があります。「ジュンジュン」とはすき焼きのことを指す近江語ですが、甘辛い、所謂すき焼きの他、出汁で具材を煮る寄せ鍋風の料理もジュンジュンと表現します。鍋料理全てをジュンジュンと表現する、といってもあながち間違いではありません。琵琶湖の魚の多くが、ジュンジュンの材料となりますが、頭がら良い出汁が出るためでしょうか、イサザは好んで使われます。大量の葱と共に、出汁でイサザを煮くのがオーソドックスなスタイルですが、これを卵で閉じた柳川鍋風ジュンジュンもとても美味しい料理です。さらに手を加えるならば、少々手間はかかりますが、先に紹介したイサザの唐揚げをジュンジュンの素材として使う方法もあります。脂の旨味が合わさり、濃厚な味わいを楽しむことができます。旨口系の純米酒のぬる燗で味わうのが最高かと。

 

イサザのジュンジュン
イサザの柳川ジュンジュン

 

 イサザを含め、琵琶湖八珍の魚とその仲間たちを頂くクルーズを琵琶湖汽船が企画しました。

 

2020年3月28日(土)びわ湖日本遺産クルーズ「春の湖(うみ)ひねもすのたりクルーズと琵琶湖八珍」と銘打ち、陽春の琵琶湖をのんびりと漂いながら、琵琶湖の魅力と琵琶湖八珍を堪能する贅沢なクルーズです。途中で白鬚神社を湖上から参拝するというプレミアム付きです。詳しくは琵琶湖汽船のHP <https://www.biwakokisen.co.jp/season_event/>『びわ湖日本遺産クルーズ』をご覧ください。オオヌマズも乗船します。

 

エビ豆?それとも豆エビ? 琵琶湖八珍を召しませ

  • 2020.01.19 Sunday
  • 17:00

 

 「琵琶湖八珍(びわこはっちん)」には、琵琶湖の湖性を際立たせるため、琵琶湖にしか居ない魚、つまり琵琶湖の固有種を選びたいと考えました。しかし、今回の主人公であるスジエビは外すことができませんでした。スジエビは、北は北方領土から南は屋久島まで分布する在来種ですが、琵琶湖のソウルフードともいえる「エビ豆」の材料となる魚(甲殻類)です。もし、これを外したら、近江人からのバッシングを受けることが必定ですから、当然のこととして、琵琶湖八珍の一員として登場して頂きました。

 

 改めて紹介するまでもありませんが、エビ豆はスジエビと大豆を甘辛く煮た料理です。この料理、近江人にとっては何の違和感もない美味ですが、他所者の目から見るとエビと豆(大豆)の組み合わせには少々驚かされます。しかも、豆と組み合わせる魚がスジエビだけでなく、ヒウオ・コアユ・イサザ・ウロリと様々であることを知ると、驚きは段々と疑問に変わって行きます。「何で近江人はこんなに何々豆料理に執着するんだ?」

 

 その謎解きをしてみましょう。琵琶湖に何々豆料理が特異的に発達した理由は、琵琶湖の漁業が、湖岸の農業と一体となって発達してきたことにあります。琵琶湖の漁業の変遷は、弥生時代以降、湖岸に接岸する魚や、クリークを通り水田にのぼる魚を農業の合間に捕る、いわば水田漁業から徐々に琵琶湖の沖合に進出していったと考えられます。ここが大事なポイントです。琵琶湖の水は真水です。琵琶湖の水も水田の水も同じですから、季節毎に水田の周辺に魚達がやってくる琵琶湖独特の生態系が生まれました。海岸の水田に決して鯛や鮪はやって来ません。

 

畔豆

 

 ところが琵琶湖では、目の前の水面に魚が泳いでいるのですから、これを捕らないわけがありません。つまり、農民が一時的に漁師に変身するのです。この漁業の形態が生み出した料理が何々豆なのです。農民は当然のことながら豊富な農作物を手にします。特に大豆は自家製味噌の原料として、多くは水田の畔に「畔豆」として植えて、何処の農家でも大量に収穫していました。この豆と、目の前にやって来る小魚とが結びつくことは、必然だったのです。

 

画像1 沖島のエビ豆
画像2 豆エビ?長浜にて

 

 さて、この画像1はエビ豆です。何処に豆が?よく見ると大量のエビに隠れるように豆が見えます。この出所は「沖島」です。沖島は御存知の通り漁業の島で、エビ漁も盛んです。沖島の人にとってエビはふんだんにあるけど、豆は購入しなければならない。だから大量のエビを使ったエビ豆が生まれました。一方、画像2は長浜市の内陸部のエビ豆です。大量の豆に少しだけエビが顔を出す、まるで「豆エビ」です。琵琶湖とこれを取り巻く環境に順応した暮らしが、何かしら暖かな美味「エビ豆エビ?」を生み出したのです。

 

 さて、エビ豆になるか、豆エビになるかは判りませんが、琵琶湖八珍を味わいつつ、春の琵琶湖をのんびりと漂うクルーズを琵琶湖汽船株式会社が企画しています。

 

2020年3月28日(土)びわ湖日本遺産クルーズ「春の湖(うみ)ひねもすのたりクルーズと琵琶湖八珍」がそれです。詳しくは琵琶湖汽船のHP<https://www.biwakokisen.co.jp/season_event/>『びわ湖日本遺産クルーズ』をご覧ください。オオヌマズも出没します。

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