明智光秀竹生島を焼く

  • 2020.07.19 Sunday
  • 15:16

 

 元亀三年(1572)、明智光秀は沖島・堅田・高島の船侍達を率いて、高島から湖北一帯を湖上から焼き討ちします。(http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=23http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=24)今回はその続編。

 

 塩津に上陸し、余呉湖方面を焼打ちした光秀船団は琵琶湖を南下し、竹生島に攻撃を仕掛けます。竹生島は、船運という経済の拠点でも、水軍としての軍事拠点でもありません。何故光秀(織田信長)は竹生島を攻撃しなければならなかったのでしょうか。

 

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塩津湾から竹生島を見る

 

 竹生島は、竹生島弁才天の島ですが、その深層には浅井郡、そして浅井氏の守り神である浅井姫の聖地、という意味合いがあります。長政の父である久政は竹生島蓮華会の頭屋を務め、その際に奉納された弁才天像が今も竹生島には伝来しています。

 

 神仏が機能していた時代、武家の権威を保証するのも、武家の武運を保証するのも皆神仏達でした。とりわけ、竹生島弁才天(=浅井姫)は、浅井氏にとって非常に大きな意味を持っていました。浅井氏が郡名(浅井郡)の名前を冠し、浅井岳(小谷山)に城を構え、湖北に君臨できたのも、全て浅井姫の後ろ盾があった(後ろ盾があるように演出した)事によります。浅井姫の加護を失うことは、浅井氏の亡びを意味していたといっても過言ではないかもしれません。

 

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竹生島の浅井姫から小谷城はよく見える
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小谷城から竹生島がよく見える

 

 湖上攻撃が行われた元亀三年七月は、徐々に長政が小谷城に追いつめられる状況にありました。おまけに、湖上攻撃の直前には、羽柴秀吉らによる湖北一円への焼き打ちも敢行されています。小谷城に閉じ込められた長政は焦りの度合いを高めつつありました。その最中、竹生島が攻撃されたのです。小谷城から竹生島がよく見えます。光秀の軍勢に攻撃され煙を上げる竹生島の姿が、長政、そして浅井家臣団の眼に焼き付いたはずです。

 

 光秀軍団を調伏する浅井姫の神威も見えないまま、竹生島が燃える。「姫様が燃える、俺の後ろ盾が・・・(長政)」「浅井姫様が燃えている、殿は姫様に見放されたのか?もはや殿には我らを、浅井の地を護る力はないのか・・生き延びるためには、殿に見切りをつけ、信長に随ったほうが得策か・・(長政家臣団)」

 

 こんな心理的な効果が、焼き打ちによって生じることを信長(光秀)は計算していたのではないでしょうか。事実、一年後、竹生島に一番近い山本山上の城主「阿閉貞征」の信長への寝返りをきっかけとして、浅井軍団は崩壊し、信長の軍門に降ることになります。

 

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竹生島を去る軍団

 

 信長は、竹生島を蔑にしていたのでしょうか?そんなことはありません。天正九年(1581)、信長は自ら竹生島に赴き、竹生島弁才天を迎え、これを安土城に安置しています。信長は、竹生島弁才天は、琵琶湖をつかさどる神として位置づけ、この加護を受けることが近江支配の必須条件と考えていたのでしょう。信長にとって竹生島弁才天と浅井姫は別の神なのです。浅井姫は長政の守り神だから攻撃してもかまわない。しかし竹生島弁才天は儂の守り神だから崇敬する。こんな、解りやすい心象が信長に働いたのでしょう。信長が迎えた弁才天は、長く宛寺に祀られていたようです。

 

 

浅井の娘4 竹生島3

  • 2020.07.12 Sunday
  • 11:01

 

 『近江風土記逸文』にこのような記事があります。「昔、伊吹山と姪の浅井岳が背比べをした。ところが、浅井岳が一夜にして背丈を伸ばしてしまった。怒った伊吹山は、浅井岳の首を刎ねてしまった。浅井岳の首は宙を飛び、琵琶湖にずぶずぶと音を立てて沈み、その先端が島となった。ずぶずぶ音を立てて沈んだことから[ずぶふじま=竹生島]となった。」というお話です。

 

 浅井岳は姪と記されていることから女性であり、浅井郡をつかさどる浅井姫の山です。そしてこの浅井岳がどこにあったかと言うと、諸説あって定まらないのですが、小谷城のある小谷山を浅井岳と表現した記録があることから、小谷山=浅井岳とすることもできます。

 

 湖北に君臨した京極氏を押しのけ、湖北の覇権を握った浅井氏ですが、他の湖北の地侍達を圧倒するだけの財力・武力を持っていたわけではありません。浅井氏が浅井郡の守り神である浅井岳に城を構えたから、ほかの地侍達は表面上、浅井に随った。と言う事のように思えます。

 

 浅井の主張「俺は、浅井の守り神である浅井姫様の山に入り込み、ここに城を築いたが、ピンピンしている。浅井姫様の怒りを買うこともなく、ばちも当たらない。俺は、浅井姫様と同体化することを姫様に認められたんだ。だから姫様の支配下にあるお前たちは、俺の支配を受けることと同じことだ。俺に逆らうことは姫様に逆らうことだ。従え!」

 

 浅井氏の権威の元は浅井姫、その頭が竹生島。実際、竹生島に最初に祀られたのは「浅井姫」とされています。浅井郡の琵琶湖に神秘的に浮かぶ竹生島に浅井郡の守り神が宿ると感じるのは当然の心象でしょう。

 

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神秘的に浮かぶ浅井姫の竹生島

 

 この地方的な女神の浅井姫が、竹生島の航路を護る神としての価値を帯びると、国家神である宗像の市杵嶋姫と同体化し、やがて、仏教が伝来すると水と命を司る弁才天女と同体化し、竹生島弁才天として、竹生島に君臨することになります。しかし、浅井郡の住人、特に郡名を冠した浅井氏にとっては、あくまでも「浅井姫」の聖地が竹生島なのです。

 

 淀殿(茶々)は、永禄十二年(1569)頃小谷城で生まれました。そして天正元年(1573)の小谷城落城まで小谷城で過ごします。幼女のころの記憶とはいえ、母お市と共に小谷城から見た竹生島の神秘的な姿は脳裏に焼き付けられていたのではないでしょうか。そして、自分は「浅井の娘」という強烈な自負心も生まれたのでしょう。その大元は浅井姫に対する信仰だったと思います。夫の長政を殺した秀吉に対するお市の怨嗟も、茶々に「自分は浅井の娘」という思いを増幅させていったのだと思います。その茶々が秀吉の側室になり、秀頼を生むという、皮肉な運命を歩むことになるのですが。

 

 淀殿にとって、秀吉に対する個人的な思いは複雑だったとは思いますが、浅井姫の聖地を、当時の最も豪華な美で荘厳することに対しては、何のためらいもなかったと思います。浅井の娘として、浅井の守り神である浅井姫を美しく飾り、お喜びいただき、その力で浅井の娘の子(秀頼)と、その将来を護っていただきたい。そんな思いが、竹生島に移築された建造物群に込められているのではないでしょうか。

 

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豪華に飾られた建物

 

 竹生島から小谷城がよく見えます。

 

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竹生島から小谷城がよく見える

 

 

浅井の娘3 竹生島2

  • 2020.07.05 Sunday
  • 17:22

 

 前回、竹生島の都久夫須麻神社本殿の建物についてご紹介しました。今回は、修復の終わった宝厳寺唐門・観音堂と渡廊について紹介します。

 

 現在の竹生島は、弁才天と千手観音を祀る宝厳寺と、市杵嶋姫他の神々を祀る都久夫須麻神社とに分かれていますが、これは明治維新以降の姿で、江戸時代までは長く、弁才天を祀る「竹生島弁才天社」と観音菩薩を祀る「宝厳寺」が並立し、現在の都久夫須麻神社本殿に竹生島弁才天が祀られていました。

 

 ところが、明治政府は、神社に仏教の尊格が祀られていることを容認することができず、これを厳格に分けるよう厳命し、竹生島は、これに泣く泣く従い、弁才天を一時観音堂に遷し、後に現在の弁才天堂が建立され、弁天様はここにやっと、安住の地を得ました。

 

 宝厳寺唐門は本来、宝厳寺の観音様にお参りし、その後、弁才天にお参りする竹生島信仰を象徴する建物として、慶長七年(1602)に徳川家康の画策により豊臣秀頼、淀殿(浅井の娘茶々)により移築されたとされています。この建物は本来秀吉の大阪城に建立された極楽橋の正面部分を移築したことが判明しました。(前回の記事を参照してください)

 

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宝厳寺唐門
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唐門の正面

 

 この唐門ですが、建物の高さが低く感じられ、元あった建物を移築するに際して改造したものと考えられています。この建物の最も大きな特徴は絢爛豪華な彩色を施した彫刻群でしょう。特に正面の大きな蟇股(かえるまた)とその左右に配された金鶏(きんけい:王者を象徴する雉の一種で、剣のように尖った尾羽が特徴)は実に見事です。まさに、秀吉の大阪城を飾るにふさわしい彫刻です。ただ、金鶏の下に遊ぶ3匹の「波乗り兎」が気になります。兎もめでたい動物なのですが、大阪城になくても・・・。この波乗り兎のモチーフは、『謡曲竹生島』の「兎も波に遊ぶか、面白の景色・・」から派生したとされています。実に竹生島を飾るにふさわしいモチーフで、出来すぎです。移築に際して、何者かが付け加えを指示したのではないでしょうか。誰が?淀殿では?

 

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修復前
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獅子阿形修復後
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獅子阿形修復前
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獅子阿形修復
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獅子吽形修復前
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獅子吽形修復後

 

 観音堂ですが、唐門、都久夫須麻神社本殿と同じ基調の装飾が施され、同じく大阪城極楽橋関係の建物が移築されたとするのが妥当のようです。そもそも、御本尊を安置する間が建物正面にありません。この事も、観音堂が祭祀を目的とした建物ではなかったことを示しています。

 

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修復された観音堂の天井

 

 そして渡廊です。大阪城の古図では屋根が、唐破風のアーチをそのまま伸ばした形状で描かれていますが、渡廊の屋根は直線を合わせた切妻屋根で、極楽橋を移築したとするには矛盾があります。しかし、観音堂に接続する部分、都久夫須麻神社本殿に接続する部分を見ると黒漆が塗られた唐破風型の妻となっています。どうやら、楼の本体を切妻屋根に替える省略が行われたようです。

 

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渡廊の先端の唐破風

 

 これらの絢爛豪華な建物群の移築を主導したのは、徳川家康です。しかし、これらの建物群を竹生島に移築することを同意し、積極的にこれを勧めたのは「淀殿」ではなかったかと考えています。その理由は、彼女が「浅井の娘」だったからです。

 

何故浅井の娘だから竹生島を豪華にしたのか? その理由は次回へ

 

 

浅井の娘2 竹生島と茶々1

  • 2020.07.01 Wednesday
  • 18:04

 

 竹生島宝厳寺の唐門・観音堂の保存修理が終了し、建築当時の華麗な姿が蘇りました。工事の経過には問題があったようですが、蘇った建物達には罪はありません。

 

 竹生島には、桃山期の美の粋を集めた建物群があることで知られています。今回の修理で蘇った宝厳寺唐門・観音堂と渡廊・都久夫須麻神社本殿です。これらの建物群は、豊臣秀吉の伏見城の建物を、秀吉を祀る豊国廟に移築し、さらに豊臣秀頼の手により竹生島に移築されたとされていました。しかし、今回の保存修理を通して、これらの建造物群が、秀吉の大阪城にあった「極楽橋」を豊国廟に移築し、これを竹生島に移築した可能性が高いことが判明した、と報じられました。大阪城の極楽橋を移築した可能性については、2017年に竹生島奉賛会が刊行した『竹生島 琵琶湖に浮かぶ神の島』の中で、既に、神戸女子大学の木村展子さんが、その可能性をしていましたが、この指摘が証明されたことになったわけです。

 

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都久夫須麻神社

 

 極楽橋移築説の事の発端は、都久夫須麻神社本殿の建物です。この建物は、永禄十年(1567)に浅井長政らの手により建立された、弁天堂がベースになっています。永禄10年といえば、信長の妹のお市はすでに長政に嫁いでおり、2年後の永禄十二年に茶々(淀殿)が生れています。

 

 この時建築された弁天堂は、華麗な彫刻が施された美麗な建物でした。現在の建物は、中心の3間×3間の身舎(もや)の周りに、正面5間、側面4間の廂(ひさし)を巡らせています。昭和十一年(1936)に行われた解体修理の結果、この建物には様々な矛盾があることが判明しました。そのもっとも大きな矛盾は、身舎と廂の柱筋が悉く通らないのです。これは、身舎と廂がそれぞれ別の建物であることを示しています。さらに、身舎の柱には角柱を用い、廂には丸柱を使っています。これは通常の神社建築ではありえない柱の使い方です。柱には「格」があります。原則として、丸柱は格が高く、より神仏に近い空間に使われます。対して角柱は「格」が低く、神仏を参拝するために建物に参入する人間の空間に使われます。つまり、身舎部分は世俗的な建物であり、反対に廂部分が神仏のための聖的建物であることを示しています。

 

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都久夫須麻神社本殿平面
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都久夫須麻神社本殿新旧の関係
(赤が慶長7年・緑が永禄10年)

 

 これらの矛盾は、身舎と廂が別々の建物である、と考えれば解消します。実は、廂部分は永禄十年に浅井長政らにより建築された弁天堂で、身舎部分が、慶長七年(1602)に何処からか移築された建物なのです。そしてこの移築された建物が、大阪城の極楽橋の一部と考えられるようになったのです。橋に建物が乗っている?変な感じがしますが、大阪城の古図を見ると唐破風屋根が懸かる橋の中央に、此れも唐破風付きの楼が乗っています。この楼が都久夫須麻神社本殿の身舎部分と推定されるのです。

 

 そう考えると、本殿建物を見た時の違和感も解消されます。それは、本殿身舎に懸かる、唐破風付きの入母屋屋根と、廂部分に懸かる裳階屋根(もこしやね)の間が、とってつけたような縦板で覆われていることです。ここにも彫刻が施されればもっと格好の良い建物なのに、変な感じがしますが、二つの建物を合体させたと考えれば納得できます。

 

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都久夫須麻神社本殿

 

 さらに、本殿の裏にも唐破風がついています。唐破風は見る人に建物の豪華さをアピールするために付ける飾りですから、普通は正面だけに付けます。まして、都久夫須麻神社本殿の後ろは崖で、通常、人が眺めることはありません。そうすると、此の身舎部分の建物は建物の前後から人に見られることを前提とした建物ということになり、極楽橋の上に乗っていた「楼」を移築した、という考えを補強します。

 

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本殿の背面1
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本殿の背面2 唐破風がある

 

 では、誰が何のためにこの建物をここに移築したのでしょうか?勿論豊臣秀頼です。しかし、当時の秀頼の背後にあり、実質的に豊臣家を差配していたのは「淀殿(茶々)」です。

 

  そして、移築を勧めたのは、此れも勿論、徳川家康です。家康としては、豊臣家に浪費させ、その財力を弱めたいという思惑と、秀吉の威光を示す構造物は抹殺したい、という思いがあります。しかし破却するには世間の目がある。それであれば、豊臣も、世間も納得できる形で秀吉の残影を消し去る。このために、家康と淀殿との交渉により、この移築が実現したのでしょう。

 

<続く>

 

 

私は浅井の娘 淀君と石山寺

  • 2020.06.21 Sunday
  • 17:01

 

 戦国時代は、武将たちが華々しい戦いを繰り広げた時代。というイメージが先立ちます。華々しい戦い、しかし現実は、命のやり取りであって、好んで戦いの場に臨んだ武家がどのくらいいたのか、オオヌマズには疑問です。できるなら戦いたくはない。何故なら「死にたくない」からです。一度死ぬと、普通はこれで終わりです。だから「死にたくない」。これが普通の感性かと思います。ドラマ・小説の世界は、事実とは異なるフィクションの世界、と割り切って楽しみたいものです。

 

 さて、人口の約半分は女性です。当然、戦国時代にも女性はいました。当たり前です。そして、女性たちも戦国の世を生き抜きました。当たり前です。しかし、戦国の女性の生き様は、なかなか歴史として残されていません。その中でも近江には、戦国女性の足跡が比較的多く残されています。今回はその中でも、豊臣秀吉の側室であった「淀君」と近江との関係を紹介します。

 

 淀君は、永禄十二年(1569)年頃、小谷城で生まれました。幼名は茶々で、父は浅井長政、母は織田信長の妹のお市の方です。お市の方は戦国時代きっての美人だったといわれます。が、美女の概念は時代によって異なりますから、お市さんが、現代人が感じる美人であったかどうかは解りません。ともあれ、当時の感覚では美人だったようです。

 

 翌、元亀元年から浅井長政と織田信長は、志賀陣と呼ばれる泥沼の戦いに突入し、この間、茶々は五歳くらいまで小谷城で暮らしました。この時、小谷城から琵琶湖、そしてここに浮かぶ竹生島の神々しい景色を日々見つめたことでしょう。

 

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小谷城から望む竹生島
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長政・お市とその子供たち

 

 天正元年(1574)、小谷城は落城。茶々は、母と二人の妹共に小谷城を脱出し、信長の叔父の織田信次に預けられ、信長の庇護のもと、不自由なく暮らしていたようです。しかし、天正十年(1582)、信長が本能寺の変に倒れると、その戦後処理の一環としてお市の方は、柴田勝家に嫁ぎ、母子は福井の北庄城に移ります。しかし、天正十一年賤ケ岳の合戦で勝家が破れると、勝家と共にお市は自害。この時、茶々と二人の妹は脱出し、秀吉により迎えられ、安土城で織田信雄が後見としてしばらく暮らしたようです。

 

 ほどなく、茶々は秀吉の側室として迎えられ、豊臣秀頼を生み、「淀の方・淀君」と呼ばれるようになります。この時点での淀君の豊臣家女性陣のランクは、第三位(一位:北政所・二位:お松の方・三位:淀君)です。意外かもしれませんが、お松の方は、京極家出身で、浅井氏は最後まで京極家の家臣だったため、家柄から淀君はお松の方の下に甘んじていたわけです。二人の間には序列を巡る激しい葛藤があったといわれています。

 

 秀吉が亡くなると、淀君は、秀頼の生母・後見として、絶大な権力を振るうようになり、この事が、周辺との軋轢を生み、淀君は非常に苦しい立場にあったと、言われています。こうした中、徳川家康は、豊臣家の財力をそぐため、戦国の世に荒廃した社寺の復興への助力を勧めます。この一環で北政所は園城寺本堂を寄進しました(http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=57)。そして、茶々は石山寺の礼堂を寄進します。

 

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石山寺大門(この修理も淀の寄進により行われた)
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石山寺本堂(左側が礼堂)

 

 何故、石山寺なのか?その真相は解りません。しかし、石山寺の御本尊の如意輪観音は、女性の守り神として古くから、女性の信仰を集めてきた観音様です。戦国の世に翻弄されつつも力強く生き抜いた淀君ですが、石山寺の観音様に救いと安寧を求めたのかもしれません。本堂と同時に本尊のお前立の如意輪観音も淀君が寄進しました。信仰心もさることながら、北政所もそうですが、巨大なお堂を個人の財で「ポン」と寄進できる、当時の女性の財力の高さにも驚かされます。

 

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石山寺礼堂
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石山寺礼堂
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石山寺礼堂

 

 さて、竣工した本堂には、これを記念する額が掲げられました。ここには寄進者として「江州北郡浅井備前守息女(近江の湖北に君臨した浅井長政の娘)」と書かれています。「豊太閤室(太閤秀吉の側室)」ではないのです。淀君は最後まで、近江の浅井の娘であることに、強い誇りを持っていたことがわかります。何故でしょうか?それは解りません。しかし、少女のころ小谷城から母と共に眺めた「聖なる琵琶湖」の心が、彼女に強く刻まれていたため、と考えたいです。

 

 今回のお話は、琵琶湖汽船株式会社が発行した「戦国シート[戦国の女性達]」にも掲載しました。琵琶湖に来られた際には、琵琶湖汽船が発着する港を覗いてゲットしてください。

日吉東照宮に麒麟を見た

  • 2020.04.08 Wednesday
  • 11:15

 

 元亀2年(1571)、織田信長の命令により比叡山焼討ちが敢行されました。この攻撃の中心を担ったのが明智光秀です。光秀はこの功績により志賀郡を与えられ、坂本城の築城を命じられました。坂本城の大きな役割の一つに、焼討ち後の延暦寺、日吉大社の監視があったとされています。信長は延暦寺、日吉大社の復興を認めません。当然、光秀は信長の命令に従ったはずです。

 

 天正10年(1582)、光秀は本能寺の変により信長を倒しますが、そのすぐ後、秀吉により倒されてしまいます。

 

 秀吉の時代になり、延暦寺、日吉大社の復興が認められましたが、豊臣を滅ぼした徳川の時代になると、延暦寺、日吉大社の復興が急速に進展します。ここに大きな影響力を発揮したのが南光坊天海(慈眼大師)です。天海僧正は、徳川三代に仕え、初期徳川幕府の運営に大きな影響を与え「黒衣の宰相」とも呼ばれていますが、その出自は謎に包まれています。「明智光秀が、山崎の合戦を生き延びて天海僧正となった。」という説も広く流布していますが、真偽のほどは定かではありません。

 

 さて、天海僧正は延暦寺との関係の深い僧で、徳川幕府の運営にも天台の思想(延暦寺の思想)を強く反映させました。特に、元和2年(1616)家康が亡くなった際、家康を神として祀るための根拠として「山王一実神道」を強く主張し、家康を「東照大権現」として祀ることに成功します。東照とは、延暦寺の根本如来である薬師如来の東方浄土に由来します。家康自身が、三河鳳来山寺の薬師如来の生まれ代わり、と主張していますが、これも天海が仕組んだ話かもしれません。

 

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唐門から拝殿

 

 家康は始め、静岡の久能山に祀られましたが、一年後に日光東照宮に祀られます。そして、完成間もない東照宮ですが、寛永11年(1634)にこの再建が始まり、13年に竣工しました。これが現在の日光東照宮です。 この一連の流れと並行するように比叡山の麓では、元和9年(1623)に、家康を祀るための日吉東照宮の建立が始まり、この建物が早くも寛永年間には改築され、寛永11年(1634)に竣工しました。これが、現在の日吉東照宮の社殿です。

 

 つまり、日吉東照宮の社殿が竣工した年に、日光東照宮の社殿の建立が始まったことになります。

 

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日吉東照宮拝殿
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日吉東照宮本殿

 

 日吉東照宮も、日光東照宮も、拝殿と本殿を「石の間」で繋ぎ、これに屋根をかけた「権現造」という形式で、家康を祀る各地の東照宮に好んで使われるようになります。この事から、日吉東照宮が日光東照宮の雛型となったとも言われるようになりました。そして、この形式を採用したのが天海とされています。(権現造りと同じような形式は、すでに平安時代の北野神社に見られます)。

 

 日吉東照宮の石の間の床は拝殿、本殿に対し低く造られ、ほぼ土間といった感じです。これは、奉仕者が本殿の神を祀り退く際、神にお尻を向けても、低いところにいるから、神に対して失礼にならないため、という説明がなされています。

 

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日吉東照宮石の間

 

 ともあれ、日吉東照宮の社殿ですが、実に絢爛豪華で、規模こそ小さいですが、日光東照宮と比べても遜色ありません。装飾で特に目を引くのは蟇股に施された彫刻です。向拝正面には龍が睨みを利かせています。そして拝殿正面の蟇股には全て帝王を象徴する鳳凰が配されています。これに対して、拝殿・本殿の側面には様々な動物たちが棲んでいます。兎や猿のような実在の動物もいますが、空想上の霊獣達も居ます。

 

 その中に見つけました「麒麟」。天海=光秀=麒麟ではありませんが、何となく得したような気分になったひと時でした。

 

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日吉東照宮向拝の装飾
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日吉東照宮拝殿の鳳凰
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麒麟が居た

 

 拝殿から振り向くと唐門越しに琵琶湖が見え、そのほぼ正面に三上山が立っています。家康は琵琶湖と三上山を見つめて、ここに眠っているのです。そういえば八王子山の社殿も三上山を向いています。比叡山と三上山には何か深い関係がありそうな・・・。

 

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家康の視線の向こうに琵琶湖と三上山
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唐門の外から見た琵琶湖と三上山

 

 日吉東照宮は土曜・日曜・休日に拝観することができます。詳しくは日吉大社まで。

 http://hiyoshitaisha.jp/

箕作山城 歴史の胎動を実感する絶景

  • 2020.03.08 Sunday
  • 12:02

 

 永禄11年(1568)、岐阜城にあった織田信長は、足利義昭を将軍に就けるため上洛戦を敢行します。岐阜から京に至る道は東山道。その殆どが近江の中を通ります。東山道の北は、信長の妹婿である浅井長政の領国ですから、通過に問題はありません。しかし、この南は、近江半国守護である佐々木六角氏の領国。当主の六角承禎は、以前に、義昭の上洛要請を断った手前もあり、信長の領国通過を拒否。そして、和田山城、佐生日吉城、箕作山城、そして観音寺城で東山道を封鎖します。これに対して、近江を強行突破するしかないと判断した信長は、愛知川の右岸に陣を置き、左岸に展開する承禎の城を、信長自ら馬を走らせ斥候しました。

 

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 そして、「脇々数カ所の御敵城にはお手遣いもなく・・・(信長は愛知川に近い和田山城、佐生日吉城を無視して)」観音寺城の向かいの箕作山城にいきなり襲いかかりました。

 承禎の目論見としては、「信長は和田山城、佐生日吉城と愛知川に近い城を順番に攻めてくるはず、消耗した信長軍に観音寺城から打撃を与え、美濃に押し返す。」でしたが、見事に裏切られました。そして信長は2時間ほどで箕作山城を攻略します。おそらく箕作山城からの目立った抵抗は、なかったのではないかと想定されます。

 

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箕作山城の石垣

 

 さらに、もっと不思議なのは、無視された和田山城、佐生日吉城が軍事行動を起こさなかったことです。信長軍は、この両城に背を向けて箕作山城を攻めているのです。背後から襲いかかれば、信長軍にダメージを与えることができたはずです。しかし、それをしない。箕作山城も、さしたる抵抗もなく開城してしまった。どうやら承禎に命じられ城に籠もっていた六角家臣団(近江衆)には、戦意が無かった、としか考えられません。

 

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 永禄6年(1563)、六角氏は重臣の後藤氏を観音寺城に呼び寄せ、ここで殺害する、という事件(観音寺騒動)を引き起こしました。この事件により、六角氏に従っていた近江衆(六角家臣団)に動揺が走り、江北の浅井長政に通じるものまで現れる始末でした。

 

 ちょうどこのような時期に信長が侵攻してきたのです。六角氏に見切りを付けかけていた近江衆が、信長とまともに戦うはずは、ありません。信長は観音寺騒動を踏まえ、自ら六角軍の前線を斥候し、前線の城からの反撃はないと確信し、観音寺城の正面にある箕作山城にいきなり攻め込んだのでしょう。

 

 信長の予想は的中。各城からの反撃がなかったばかりか、箕作山城が開城したのを見た承禎は、観音寺城を捨て甲賀に逃げ込んでしまいました。信長は、無血状態で近江の中枢を手にしたのです。

 

 箕作山城に登ります。主郭から北を見ると、箕作山城に向かって新幹線が、真っすぐに走ってくるのが見えます。この付近の新幹線は、ほぼ東山道と並行して走っています。そしてその北には、近江と美濃との境に聳える伊吹山が見えます。

 

 伊吹山を背景に箕作山城に向かって走る新幹線は、まさに近江に攻め込む信長軍です。迫り来る信長軍は、箕作山城の城兵にとって、近江を呑み込む、新たな時代を告げる歴史のうねり、と感じられたのではないでしょうか。

  

 箕作山城に上ると、当時の緊迫した状況を肌で感じることができます。まさに歴史を体感する絶景です。

 

スライド3.JPG

 

 この絶景を味わう戦国カルチャーツアーが4月11日(土)・4月12日(日)に東近江市観光協会の主催で開催されます。オオヌマズもお供する予定です。詳しくは     

http://www.higashiomi.net/tour>にアクセスしてください。

明智光秀と安土城の宴

  • 2020.03.02 Monday
  • 20:15

 

 前回、坂本城の宴の話をしました(『明智光秀と坂本城の宴http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=2)。今回は続編で安土城の宴です。

 

 天正10年(1582)、織田信長は甲斐の武田勝頼を倒し、天下布武への道を大きく前進させます。この時、勝頼の遺領分配で厚遇された徳川家康と穴山梅雪は、信長に対する御礼のため、連れ立って安土城を訪問しました。この時の接待役を命じられたのが、明智光秀です。

 

 本能寺の変の原因説の中で、この際の接待の不始末を信長に誹られ、折檻を受けたことに対する恨みを晴らした。という怨恨説があります。しかし、資料を丁寧に読めば、光秀はこの接待役をつつがなく務めたことが判ります。少なくとも、この接待に関しては怨恨説は成立しません。しかし、このもてなしのメニューには、信長の戦略を忠実に行使した光秀の姿が見えます。それは、料理で天皇を圧倒しようとする信長の戦略の行使者、としての光秀です。それは・・・・

 

 さて、この時に光秀がプロデュースした、もてなしの料理メニューの一部が記録として残されています。「天正十年安土御献立」という史料で、5月15日から17日までの3日間で供された9回ほどの接待料理の内、5回分、130種類余りの料理が記載されています。全部が残っていれば、200種を優に超える料理が供されたことになります。この中に御飯類を除き、ダブりは殆どありません。光秀が全てを差配したとしたら、光秀は料理に対する造詣が極めて高かったことになります。

 

画像1をちつき.JPG
安土饗応膳「をちつき」

 

 これらの料理は大阪の堺や京都から「珍物」を集めて造られたと記録されています。確かに鶴、白鳥等今日では決して口にすることができない食材も記されています。

 

 さて、これらの料理の中でオオヌマズが最も注目したのは、接待の最初「をちつき」の二の膳に出された「海鞘の冷や汁」です。この時代に海鞘が食べられていたことにも驚きますが「冷や汁」という表現が気にかかります。「冷えた汁」と解するのか「冷やした汁」と解するのかでは価値に雲泥の差が出てきます。貴人を接待するのに「冷めた汁」は出さないでしょう。とするならば、光秀は汁を人為的に冷やしたことになります。時は5月、新暦に置き換えれば6月中旬。梅雨に入った最も蒸し暑い季節に、光秀はどのようにして汁を冷やしたのでしょう?氷を手に入れていた、としか考えられません。

 

 古代、天皇は各地に氷室(ひむろ)と呼ばれる氷の貯蔵施設を持ち、冬に切り出した氷を夏まで蓄え、これを皇族を始めとする群臣に与えていました。この「賜氷(しひょう)」は天皇の専権事項とされていました。夏に氷を扱うという超自然的行為を行える者は天皇という神しかいない、という格を示すためです。その氷室の一つが大津市伊香立の龍華にあったとされています。ここは光秀の領地です。

 

画像2二の膳.JPG
安土饗応膳 二の膳

 

 天皇による賜氷は、古代的な律令制が崩壊するとと共に廃され、鎌倉時代には、夏に氷を食するという行為は姿を消しました。それなのに、光秀は氷を用意したかもしれない。もしかすると光秀は、信長の命により天皇の氷室を復活させ、これを信長に献上していたのかもしれません。

 

画像3ほやの冷汁.JPG
安土饗応膳「海鞘の冷や汁」

 

 信長は天正10年あるいは11年のどこかの時点で、天皇の安土城への行幸を計画していたとされます。これは、単なる招待ではなく、安土城を舞台に、天皇という神と、信長という神(この話はいずれゆるゆると)が、真の天下の統治者を巡り、メンタルな戦いを繰り広げるためです。その戦いの中で、天皇をもてなすための饗応も行われるはずです。もしかすると、そのプロデュースも光秀が任されていたのでは?そうすると、家康への接待はその予行演習的な接待ということになります。

 

 料理は、戦いの舞台です。すでに、賜氷という超自然的な行為を行う、という権威を失った天皇に対し、光秀のサポートを受けた信長は、天皇に対して氷を振舞うのです。「どや、天皇、あなたが失った自然を支配するという権威を、私は厳然と行使している。私はあなたより上に立った。認めなさい。」この時、天皇は間接的にではあるものの、自然を支配する神、という比較において、信長の下となった、ということを痛いほど自覚させられることになります。

 

 信長は天皇に勝つ。当然光秀は理解したはずです「このまま行けば、天皇は大変な事になるだろう。今の力関係で言えば当然の事。私(光秀))は、信長様をサポートする。」天正10年5月段階で、光秀が信長を裏切る可能性はありません。その半月後、本能寺の変。

 

冷や汁を食べた家康の驚愕の表情が目に浮かびます。

明智光秀と湖上焼討ち 2 塩津

  • 2020.02.26 Wednesday
  • 17:58

 

 元亀3年(1572)、織田信長の命により明智光秀は、湖北に対する湖上焼討ちを敢行します。最初の攻撃目標の海津への焼討ちは『明智光秀の湖上焼討ち1海津(戦国の小部屋) http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=23』で紹介しました。今回はその続編です。

 

  悠々と海津を去った光秀の船団は、葛籠尾崎を目指し、ここから塩津湾の奥にある塩津の港を目指して舵を切ります。余談ですが、葛籠尾崎の湖底が『イサザと葛籠尾崎湖底遺跡(食の小部屋) http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=12の舞台です。

 

 塩津は、日本海に最も近い港として大いに繁栄しました。その起源は恐らく、古墳時代にまで遡るのではないかと考えられています。近年に行われた発掘調査では、現在の塩津港の下、1.5m程の所から平安時代の港が見つかり、注目を集めました。この平安時代の港は、元暦2年(1185)に発生した大地震に伴う津波に襲われ壊滅しました。この地震により琵琶湖の水位が大きく変化し、塩津の港を琵琶湖が飲み込んでしまったのです。琵琶湖にも津波が起きたのです。用心用心。

 

01塩津を護る塩津神社.JPG
塩津を護る塩津神社
02現在の塩津.JPG
現在の塩津

  

 光秀が焼討ちを仕掛けた塩津港は、現在よりも約700mほど北、現在の道の駅「あぢがまの里」付近にあり、それが徐々に琵琶湖が埋まり、現在の位置に落ち着いたのだと考えられています。

 

 塩津に対する焼討ちの目的は、長政の経済基盤の一つである塩津港を攻撃することにより、長政の力を削ぐことにあったことは、言うまでもありません。そして、海津の港への攻撃と同様、湖上からの港に対する攻撃は、湖を生業とする船人にとって、想像以上の精神的ダメージを与えることになった、と想像されます。狭い塩津湾の南から、陣鐘・陣太鼓・そして空砲も加わったかも知れません、雷鳴のような轟音と共に、見たこともない形の船が船団を組んで近づいてくる。「我々を護り、そして暮らしを支える湖水から悪鬼が攻めてきた。その手先が信長か!光秀か!」。「もう親方様(浅井長政)はだめだ。我等を護ってはくださらぬ。時代の流れに身を任せよう。」

 

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者ども!あれが塩津だ!
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湖から悪鬼が攻めてくる

 

 塩津港の立地は、集落の背後の内湖を利用した海津とは違い、塩津大川のデルタを利用していたと考えられます。光秀の軍勢は塩津に上陸し、陸路余呉湖に向かっていますから、軍事的な反撃もなかったようです。海津衆のような軍事力を持った勢力は塩津にはなかったのでしょう。塩津を去るを去る光秀船団が、塩津の船を戦利品として略奪したことも十分に想像できます。

 

 次の焼き討ちの目的地は何と、余呉湖。

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明智光秀の湖上焼討ち 1 海津

  • 2020.02.19 Wednesday
  • 20:53

 

 

 元亀3年(1572)7月、織田信長は湖北の浅井長政を孤立させるため、湖北一円に大規模な焼討ちを仕掛けます。そして、これと連動し明智光秀等に、湖岸を湖上からの焼討ちすることを命じます。この作戦は周到に準備されていたようで、同年5月に早くも沖島に命じ攻撃に参加する船を徴用しています。

 

 光秀は沖島、堅田の船を集めこれを囲船(かこいぶね)という戦艦に改造した戦隊を率い湖北に向けて出港します。その最初の攻撃目標は高島市マキノの海津です。

 

  海津は日本海と琵琶湖の結節点として中世に入り発展した港町で、焼討ちの時点では長政の勢力下にありました。また、堅田を支配していた海津衆と呼ばれる地侍達は、浅井氏に対して軍馬を供給したり、姻戚関係を結んだりした、浅井氏を支える武家達でもありました。焼討ちの目的は明確です。長政の経済基盤である海津の港を攻撃し、さらに長政に与する海津衆も攻撃することにより、長政を弱体化・孤立化させることです。

 

01掲載 城壁を思わせる海津の石垣.jpg
城壁を思わせる海津の石垣

 

 しかし、この作戦がどの程度海津にダメージを与えたのかは疑問です。この時代。海津の港は海津の町の背後に広がる「内湖」が使われ、琵琶湖の湖岸には攻撃の対象となる船は係留されていなかったと考えられるからです。琵琶湖の船の特徴は、どんな浅いところにでも入って行けるように、船底を平らに造るところにあります。波の荒い琵琶湖の湖岸に船を係留するリスクを避けるため、波静かな、クリークや内湖などの水深の浅いところを港として使う選択をした結果です。海津の内湖と琵琶湖とは狭く浅い水路で結ばれていました。内湖の船を攻撃するため、この水路に入り込んだら海津衆の反撃を受けることは必定です。

 

 では、光秀はどのようにして海津を攻撃したのでしょうか。光秀は「火矢・鉄砲・大筒」で攻めたと記録されています。当時の火縄銃の有効射程はせいぜい30m前後。弓にしても同じようなものです。大筒(大砲)はもう少し飛んだかも知れませんが、不安定な船上からの砲撃に命中精度は期待できません。湖上からの焼討ちは海津に対して、直接的なダメージを与えることは難しかったと想われます。

 

02掲載 船の出入り口(中の井川の河口).jpg
船の出入り口(中の井川の河口)
03掲載 琵琶湖と内湖を結ぶ中野井川 .jpg
琵琶湖と内湖を結ぶ中野井川
04掲載 港として使われた海津の内湖.jpg
港として使われた海津の内湖

 

 しかし、湖上から放たれる轟音、恐らく陣鐘・陣太鼓も響き渡ったはずです。海津は琵琶湖と共に歩んできた町です。言わば自分達を守る琵琶湖の辰住まう琵琶湖から、悪鬼のような光秀の船団が轟音と共に攻め込んでくる。海津の人達は底知れぬ恐怖に襲われると同時に、織田信長という新たな時代の支配者の登場を実感したのではないでしょうか。 海津に焼討ちを仕掛けた光秀の軍団は、葛籠尾崎を目指し陣鐘・陣太鼓の音共に、悠々と遠ざかって行きます。次の目標は塩津。

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