石山寺の安産の腰掛石と子育観音  大津市石山寺町

  • 2020.06.18 Thursday
  • 18:00

 

 前に、石山寺の硅灰石のお話をしました。今回はその続編。

 

 石山寺本堂から、三十八所権現社に向かいます。この社、形式的には一間社流造のよく見られるタイプですが、中に三十八柱もの神様をお祀りしているので、一間の間口がとても広い特殊な構造を持っています。また、前回紹介したように、この社も硅灰石の上に直接建てられています。

 

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三十八所権現者本殿

 

 この社の上手にある建物が、石山寺経蔵で、石山寺一切経や校倉聖経(あぜくらしょうぎょう)等の典籍が収納されていました。経蔵の構造は、桁行三間、梁間二間の校倉造りで、硅灰石が露出している岩盤上に礎石を置いて束柱を立てていますが、一部は硅灰石に直接柱を建てています。

 

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石山寺経蔵

 

 経蔵の床下を覗き込むと、不思議なものが目に入ります。硅灰石の凹みに座布団が敷かれているのです。看板によれば「安産の腰掛石」。妊婦さんがこの座布団に座ると、安産に恵まれるのだそうです。傍らの束柱には腹帯らしきものもまかれています。時々座布団が変えられていますので、今でも信仰する方がいらっしゃるようです。

 

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石山寺経蔵
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腰掛石
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腰掛石

 

 ここから、多宝塔のある台地に登り、本堂の裏手に下ります。本堂の西に沿ってさらに降ると右手に「子育観音」の案内が。お堂があるのかと思い、硅灰石の崖に沿った小径を進むと、黄金の天蓋があり、その下に聖観音と思しき石仏が安置されています。何故ここに、子育観音様が?その理由は、観音様を正面から拝むと納得できます。

 

 観音様の背後の硅灰石の折り重なりが、巨大な割れ目を造っているのです。そしてこの前に観音様が安置され、その名は「子育観音」。まさに大地の割れ目から命が生まれる。そんな、解りやすい感性が、この観音様をここに迎えたのでしょう。そう考えると、経蔵の下の腰掛石と、この観音様はセットのように思えます。

 

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子育観音
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子育観音

 

 大地は様々な命を生み出す。そのため、多くの民族は大地を「母」とみなしてきました。まさに「母なる大地:地母神」です。といっても大地は広い。そのなかでも、母性が強く宿ると感じられたところに、その気配をカミとして祀りました。山に対する信仰がその典型でしょう。しかし山も大きい。山の中でも巨岩の露出、巨木の屹立が母性の依り代として、さらに凝縮された信仰の対象となり、その中に母性を感じさせる自然造詣があれば、ピンポイントの聖地となります。この文脈からすれば、腰掛石の凹みは“大地の気(命の源)が女性の胎内に入る聖地”、子育観音の巨岩の割れ目は“大地から命が生まれ出る聖地”として理解できそうです。

 

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子育観音

 

 女性の守り神である如意輪観音を本尊とする石山寺の境内に、母性を象徴する聖地が点在する、いや、石山寺に詣でた多くの女性たちの願いが、これらの聖地を生み出した、と言えるのではないでしょうか。

 

*子育て観音への小径は足場が悪く、状況により閉鎖されていることがありますので、 お寺の指示に従って参拝してください。

 

 

 

 

 

石山寺の硅灰石 大津市石山寺町 日本のカミに取り込まれた観音様

  • 2020.06.14 Sunday
  • 11:19

 

 琵琶湖が瀬田川に名前を変えて流れ下る右岸、伽藍山の中腹に展開する寺院が石山寺です。紫式部が源氏物語を執筆した処、西国十三番観音霊場、源頼朝の信仰、松尾芭蕉の俳句、近江八景「石山秋月」等々、魅力的な歴史文化遺産の宝庫で、一日居ても飽きないお寺です。

 

 さて、石山寺の縁起は“昔、聖武天皇は紫香楽に大仏を造りたかったけれど、叶わず、致し方なく奈良に戻り、ここに大仏の建立を始めた。大仏も姿を見せ始めたが困った。お経典には大仏の躰は黄金に輝いている、と規定されている。大仏に塗る(=金メッキ)ために大量の金が要る。しかし、今、日本に金の産地はない。そこで聖武天皇は、大仏建立のディレクターの良弁僧正をを呼び出し、「なんとかせい」と告げた。そこで良弁はまず、吉野の金峰山に赴き、「金(きん)が欲しい」と祈ると、蔵王権現が夢に現れ「確かにここには黄金が大量にある。しかしこの黄金は、四十六億年後、弥勒菩薩が如来となり来現し、末法の世に終止符を打つ際に、その宮殿を荘厳するための黄金だから、お前にはやれん。しかし、近江の国の湖水の南岸に、観音垂迹の霊地があるから、そこで祈っていればいいことがある」と告げた。そこで良弁は故郷の近江に向かい、瀬田川の岸に至ると、そこで一人の老翁が釣り糸を垂れていた。良弁は老翁に事の次第を告げると、翁は山上の巨岩の元に良弁を案内し「ここで祈れ」と告げると、かき消すように消えてしまった。この翁は近江の地主神である「比良明神」であった。良弁は、聖徳太子から聖武天皇が受け継いだ如意輪観音の像を岩に安置し祈った。祈り続ける良弁の元に朗報が届いた。「陸奥の国から大量の金が献上された」喜んだ良弁は、如意輪観音と共に奈良に帰ろうとしたが、観音は岩にくっついてどうしても離れない。困った良弁は岩に着いた観音をそのまま堂で覆い、寺とした。これが石山寺である。”

 

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比良明神釣垂岩

 

 石山寺の大門から長い参道を歩き、料金所を過ぎたところに、この時、比良明神が腰を掛けて釣りをしていたという霊石が祀られています。そしてその向かいには、目を見張るような光景が広がっています。渦巻くように屈曲を重ねる奇岩の群れです。この岩は、石山寺境内のほぼ全域に広がっており、「石山寺の硅灰石」として天然記念物に指定されています。硅灰石(珪灰石)とは、大昔の海洋生物の遺骸が岩となった「石灰岩」が、地球の火山活動により生じたマグマの熱を受けて変性(成分や構造が変化して別種の岩石になること)した岩石で、元の石灰岩の純度が高いと「大理石」に、泥などの不純物が多く含まれていると「硅灰石」になるとのことです。厳密に言えば、石山寺の硅灰石の中には大理石も混じっているようです。地質学的な話はともあれ、本堂と多宝塔の間に屹立する硅灰石の群れは息をのむような光景です。

 

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石山寺硅灰石
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硅灰石と多宝塔

 

 石山寺の本尊は、何度か火災に逢い平安時代に復興された丈六の如意輪観音で、宮殿(くうでん)と呼ばれる巨大な厨子の中に、硅灰石の上に座して安置されています。通常、仏像は動産ですから、自由に移動させることができます。そのため、建築条件の良いところに堂を建立してこの中に仏像としての仏を安置します。ところが、石山寺の観音様は硅灰石から離れなくなってしまいました。このため、観音様を移動させることができないので、硅灰石ごと堂で覆うことになったわけです。

 

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石山寺本堂

 

 通常の寺院は、仏様と参拝者の都合により伽藍が決められますが、石山寺は、観音様の都合に合わせて伽藍配置が決められました。その結果、観音様を拝する人は、硅灰石の崖の途中から拝まなければならない、という不都合が生じました。どうする?参拝者を観音様の高さまで持ち上げれば良い。この結果、硅灰石の崖に沢山の柱を立てて、観音様の高さに合わせて床を張り舞台状にした、懸造りの礼堂を造り、これを本堂に合体させた、石山寺独特の建物が生まれました。因みに、観音様が座す本堂は平安時代、礼堂は淀君の寄進による中世の建物です。

 

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懸造りの礼堂
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懸造りの柱

 

 何故、このような膨大な労力と資材を投入して、堂を建立しなければいけないのか?それは、岩から離れなくなった観音様を祀るため、言い換えれば岩に取り込まれ一体化した観音様、さらに言い換えれば、岩と同化した観音様を祀るためです。つまり硅灰石の露頭は日本の自然に宿るカミの宿る磐座で、仏は日本の神につかまり、日本の神と同化してしまったわけです。ですから、石山寺の本尊如意輪観音は、極論すれば「硅灰石に宿るカミ」ということになります。そう思って、石山寺の堂舎を拝すると、多くが礎石を用いず、硅灰石に直接建てられています。これらの建築の様態も、岩に宿るカミへの信仰が反映されているのでしょう。

 

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硅灰石に建つ龍蔵権現社
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硅灰石に建つ三十八所権現社

園城寺(三井寺)の閼伽井 大津市三井寺町

  • 2020.06.10 Wednesday
  • 21:26

 

 前に長命寺の閼伽井のお話をしました(http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=56)。今回はその続編、園城寺の閼伽井のお話をしたいと思います。

 

 園城寺の別名が「三井寺」。一般的にはこの名前の方が親しみがあるのではないでしょうか。近江八景でも「三井の晩鐘」ですし、駅名も町名も「三井寺」です。この名前の由来は、天智・天武・持統という古代の三人の天皇の産湯に使った霊泉が境内から湧き出ていることに由来する、と語られています。真偽のほどはともあれ、この霊泉は今も園城寺境内から湧き出ており、これを閼伽井と呼び、これを覆う堂を閼伽井屋と呼んでいます。

 

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園城寺本堂と閼伽井屋(画面左の屋根)

 

 閼伽井屋の中を覗いてみましょう。すると、左奥の石組みの中から「ぼこっ・ボコッ」と音を立てながら、水が湧き出ています。白洲正子は『西国巡礼』の中で、「金堂の裏手に三井の名の起こりである霊泉があった。・・・・しめ縄をはった岩の間から清水が流れており、それが一定の間をおいて、奈落の底からひびいて来るような音を立てて湧きあがる。千年も、いや何千年も前から、この泉はあきもせず、不気味な独言をいいつづけてきたのだろう。」と紹介しています。

 

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閼伽井(左隅が湧水地点)

 

 文禄四年(1595)、豊臣秀吉は園城寺に対して、突然「闕所令」を出します。園城寺の伽藍を地上から抹消せよ!という命令です。時の権力者には逆らえず、この時、園城寺の伽藍は、命令通り地上から姿を消しました。しかし、秀吉はその死の直前に闕所令を解除し、死後、園城寺の復興は、豊臣氏、徳川氏などの助力により急速に進み、現在の寺観が整いました。この復興の際に、本堂と共に閼伽井屋も新築されました。

 

 園城寺本堂は、秀吉の正室である北政所の寄進により建立された、典型的な密教寺院本堂で、約二十三m四方もある巨堂で、この中に、三寸二分(9.7センチ)の弥勒仏が、絶対秘仏として祀られています。因みにこの仏は、中国の南嶽大師慧思(聖徳太子の前身)が修行中に降臨した弥勒仏を、自らの分身として残した仏で、用明天皇が百済より得て、天智天皇に伝え、天智天皇の念持仏として崇福寺に納められていた霊仏であると、伝えられています。

 

 この巨大な本堂に閼伽井屋は寄り添うように建てられています。しかし、よく見ると違和感のある建物配置です。というのは、本堂の屋根の一部が閼伽井屋の屋根に重なっているのです。このため、本堂の雨落ち水が、直接閼伽井屋の屋根に落ちてきます。檜皮葺の屋根ですから、この部分が痛むのは歴然です。何故、園城寺はこのような不可思議な建物を建てたのでしょうか?

 

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閼伽井屋の蟇股(伝左甚五郎作)
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閼伽井屋と本堂との関係

 

 この理由は、園城寺が三井寺(御井寺)であると考えれば理解できます。つまり、園城寺の本体は、この閼伽井だからです。閼伽井は不動産ですから動かしようがありません。本堂も不動産ではありますが、再建の際にもう少し東にずらして建てることは、十分可能だったはずです。しかし、それをしなかった。あえて、本堂の屋根で閼伽井屋を覆いたかった。と考えれば理解できます。

 

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本堂の屋根が閼伽井屋に懸かっている
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閼伽井屋の軒裏と本堂の軒裏

 

 園城寺の本尊と閼伽井屋には、こんな物語が隠されているように思えます。

 

  「人が暮し始めるはるか以前から、長等山の麓から清浄な水が湧き出ていた。人がこの地に至りこの湧水を見たとき、人はここにカミを感じて湧水を祀り始めた。やがて仏教が伝来し、大津宮が置かれ、壬申の乱が勃発し、その後、この地に天智天皇、大友皇子の御霊を祀る寺院が建立され、天智天皇の念持仏であった弥勒仏が本尊として祀られた。後に、智証大師が寺を再興し、園城寺は大発展を遂げた。その過程で、本来の主の湧水は、雄弁な仏の陰に隠れてしまった。しかし、園城寺の僧は、本能的に、弥勒物と湧水との関係を感じ取っており、本堂の屋根で閼伽井屋を覆うことにより、湧水のカミと弥勒仏とが同格(一体)の神であることを表現しようとした。」

 

 巨大な園城寺の伽藍を構成する歴史と文化を一枚一枚剥ぎ取ってゆくと、最後には、近江に宿る自然の神との邂逅が待っているのです。

 

 白洲正子は、この閼伽井を拝し「その時、私は、・・この寺の「黄不動」の像を、思い浮かべた。それは展観というより、ご開帳という気分だったが、香の煙の中に浮かんだあの不動の姿は忘れられない。・・力強く、画面いっぱいに立った姿からは不思議な妖気が迫って来た。その不動と泉が似ているといったらおかしいが、それと同じものを私は、たしかにこの音の中に聞いた。」と、語っています。白洲正子も、水に宿るの神としての不動明王を感じ取ったのです。瀧に不動明王を感じる感性と同じです。

 

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閼伽井

長命寺の閼伽井 近江八幡市長命寺

  • 2020.06.01 Monday
  • 13:57

 

 前に、長命寺の不動の瀧のお話をしました。今回はその続編です。

 

 長命寺の本堂は、中世に建てられた典型的な密教寺院本堂として知られています。白洲正子の名作『西国巡礼』で 、「織田信長に焼かれ、現在の建築は天正年間のものである。」と紹介していますが、これは間違い。本堂は大永四年(1524)の建築で、信長は焼いていません。信長はむしろ長命寺を保護し、鷹狩の際の宿舎として度々訪れています。近江では「信長は天台系の寺院と対立し、これを悉く焼いた 」と語られます。確かに延暦寺や百済寺を焼討ちしていますが、信長の保護を受けた天台系の寺院も多くあります。近江を愛した白洲正子は、あちこちで信長焼討ち伝説を聞き、天台寺院を焼き尽くした信長のイメージを刷り込まれてしまったのでしょう。と、するならば、白洲正子を誤認させるほど、近江の文化の影響力は偉大であるのかもしれません。

 

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長命寺本堂
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長命寺本堂

 

 さて、この本堂に祀られる御本尊は、それぞれ時代の異なる、十一面観音・千手十一面観音・聖観音の三人の観音様で、内陣の大きなお厨子の中に、秘仏として祀られています。このお厨子ですが、須弥壇の上に安置されているように見えますが、実は地面の上に石垣の基壇を造り、この上に安置されています。つまり、観音様たちは地面の上に立っている、そんなイメージです。

 

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長命寺本堂断面図

 

 前回の不動の瀧で「長命寺参詣曼荼羅」を紹介しました。勿論、本堂も曼荼羅に描かれています。ところが、よく見ると、不思議な情景が描かれているのに気づきます。本堂が建っている基壇に樋が差し込まれ、ここから水が流れ出、枡の中にたまっている様子です。

 

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長命寺参詣曼荼羅A
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長命寺参詣曼荼羅Aアップ
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長命寺参詣曼荼羅B
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長命寺参詣曼荼羅Bアップ

 

 現在の長命寺本堂を見ると、斜面に石垣を築き、この上に本堂が建てられていますが、水が流れ出ている様相はありません。しかし、本堂の南側を見ると、屋根に可愛らしい天女の乗った、小さなお堂が建っています。覗いてみると、中は井戸です。このお堂は閼伽井堂と呼ばれ、御本尊にお供えする閼伽水を汲む聖なる井戸です。閼伽(あか)とは神仏に供える聖なる水という意味で、一説にはラテン語の「アクア」に由来する国際語であるとも言われています。「**フレッシュ」なる商品がありますが、ここからとったのでしょう。

 

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現在の本堂基壇
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本堂と閼伽井堂
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長命寺閼伽堂屋の天女

 

 井戸の水は通常は下から湧き出てきます。ところが、この閼伽井の中を覗き込むと、水は本堂の方から流れてきています。つまり、本堂から湧き出る水を集めたのがこの閼伽井ということになります。とすると、長命寺参詣曼荼羅の本堂基壇から流れ出る水を90°南に振れば、この閼伽井に重なります。長命寺参詣曼荼羅の水の表現は架空のものではなく、実景だったのです。そして、閼伽井堂の中のお厨子にも、小さな十一面観音が祀られています。

 

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閼伽井
12閼伽井堂の中にも十一面観音が祀られている.JPG
閼伽井堂の中にも十一面観音が祀られている

 

 こんな物語が隠されているのかもしれません。

 

 「長命寺山の中腹から清浄な水が湧き出ていた。これを見つけた古の人は、大いなる水の恵みに感謝し、湧水をカミとして祀り、大切に守っていた。やがて仏教が日本に伝来し、聖徳太子と共に長命寺にやって来た。仏教の宗教者もまた、この水に恵みと神秘を感じ、これを仏として祀ることにした。しかし、水は仏ではないので、水を象徴する仏像を安置することにした。これが、三本尊の中で一番古い十一面観音で、仏の姿をした水の女神である。このままでは、寺院としての格好がつかないので、湧水をお堂で覆うことにした。しかし、本尊は本来、地から湧き出る水、という自然物なので、地に基壇を築き、ここに厨子を置き、これを建物で覆った。水は、本堂の基壇から流れていたが、これでは基壇を痛めるので、本堂の南に水を導き、水を溜める閼伽井を造った。そして、時代が降り千手十一面観音様がやって来たけれど、まっ、いいか、同じ観音様やし、御本尊にしてしまおう。さらに時代が降り、聖観音様がやって来たけど、これも御本尊に加えてしまった。なにせ、八百万の神のうごめく日本、御本尊が複数いたところでかまへん。皆同じ神様だから。閼伽井の水は観音様(日本の自然の中に宿るカミ)の元から生まれる水なので、観音様にお供えする水として今も使われている。」

 

 白洲正子は作品の中で長命寺の信仰を「しょせん日本人の信仰は、自然を離れて成り立ちはしないのだ。」と喝破しています。その通りだと思います。長命寺の荘厳な伽藍を造ってきた歴史を一枚一枚はぎ取ってゆくと、最後に残るのは「水」という自然に対する信仰なのです。

 

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長命寺から水が天に戻る

瀧に宿る不動明王 長命寺参詣曼荼羅

  • 2020.05.28 Thursday
  • 22:35

   

 長命寺は、武内宿禰の故事により、聖徳太子が開いたとされるお寺です。長命寺は天台仏教と様々な民間の信仰が溶け合った、日本の信仰文化が体感できる素晴らしい寺院です。この長命寺の魅力については、おいおい書き綴っていくつもりです。

 

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長命寺の伽藍

 

 さて、長命寺には「参詣曼荼羅」と呼ばれる絵画が複数伝えられています。参詣曼荼羅とは、中世の終わりから近世にかけて、衰退した社寺がその復興のため、全国から寄進を集める際、その社寺の魅力を伝えるために作成された絵画で、近畿圏を中心とした社寺に五十件ほど残されています。長命寺参詣曼荼羅もその一つで、長命寺には複数の参詣曼荼羅が伝えられています。

 

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長命寺参詣曼荼羅A

 

 参詣曼荼羅をよく見ると縦・横に規則正しく皺が走っていますが、これは参詣曼荼羅を小さくたたんで持ち運んだ際に付いたものです。長命寺に属する勧進聖達は、この参詣曼荼羅を持ち、人の集まるところでこれを広げ、長命寺の功徳を絵解きで語ったのでしょう。「そも、我が長命寺は武内宿禰様のご縁の地、聖徳太子様が観音様の霊威をお感じになり開かれた寺院にして、天智天皇の崇敬をも集めたり。ご本尊観音様は、疱瘡等流行病に抜群のご利益あり・・・長命寺に寄進すれば、現世満足・来世往生間違い無し・・・チャリーン・・」勧進聖達の名調子が聞こえてきそうです。

 

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長命寺参詣曼荼羅B

 

 参詣曼荼羅には長命寺の様々な物語が描かれています。画面右に興味深い情景が描かれています。お堂があり、お堂の元から瀧が懸かり、行者と思しき人物が瀧に打たれている情景です。所謂「瀧行」です。この参詣曼荼羅に描かれている堂と瀧は、ずいぶん姿を変えてはいますが今もあります。

 

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参詣曼荼羅Aの不動の瀧
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参詣曼荼羅Bの不動の瀧

 

 曼荼羅には堂に祀られている神仏は、表現されていませんが、現在残されている堂の本尊は、石造の不動明王です。瀧の流れをよく見るとここに「炎」が表現されています。水と真逆の炎が同居している?この炎の正体は、迦楼羅炎です。迦楼羅炎とは仏教の守護神である迦楼羅天が吐く炎で、不動明王の光背ともなります。不動明王と迦楼羅を直接結び付ける根拠はよく解りませんが、空海の指導の下で製作されたとされる、神護寺の高雄曼荼羅の不動明王の光背は「九迦楼羅焔」とされています。また不動明王の姿を規定した不動十九相観には「遍身(全身に)に迦楼羅炎あり」と規定されています。始めは単なる火炎光背だったものが、炎の霊鳥の迦楼羅と結びつけられたのでしょう。何れにしても、迦楼羅炎は不動明王の象徴として定着しました。

 

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伊崎寺大阿闍梨の焚く護摩の炎
生きた不動明王の元に迦楼羅炎降臨する

                                             

 不動明王の元から、迦楼羅炎が瀧水とともに落ちてくる。ということは、瀧水と共に不動明王が降臨し、瀧壺と交わる。参詣曼荼羅では行者に降臨する。

 

 瀧と不動明王との関係については、「2020.04.04薬師の瀧http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=34」、「2020.04.13紫雲の瀧http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=38」でも紹介しました。山で生まれた川の最大の変曲点である瀧は、神の世界の水が人間の世界の水に生まれ変わる聖地、生まれるためには男性神と女性神との交わりが必要で、男性神の象徴が瀧水で、不動明王の持つ剣。女性神の象徴が滝壺で、多くの場合、弁才天が象徴化されます。滝壺で交わった結果、人の水が生まれ、里に流れる。そして母なる琵琶湖に集う。こんなイメージです。

 

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現在の不動の瀧
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瀧行の行場

 

 

 

 

 よく、瀧に打たれる荒行が紹介され、「瀧に打たれることにより心身を鍛える」というように解説されますが、おそらくこれは本質を見誤り、行の様態のみを見て解釈した結果と思われます。本質は、「瀧とともに流れ落ちる不動明王の力(自然の持つ力)を体の中に取り込み、体を浄化、或いは神の力を得て、この力を発露させる」そんな意味があるのだと思います。

 

 平安時代の初めに日本にやってきた不動明王は、徐々に、日本の自然に宿る神様の影響を受け、その生き残りをかけて「自然が生み出す水の男性神」に変容していったのでしょう。インドの神様を日本の神様に変容させる、自然に宿る融通無碍な日本の神様の力を感じます。

 

※現在、不動の瀧には立ち入る事ができません。

 

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瀧不動
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瀧不動

鏡山の竜王宮 竜神の宿る磐座 竜王町鏡

  • 2020.05.11 Monday
  • 11:32

 

 滋賀県竜王町。竜王町には、二つの竜王山が聳えています。北に聳える竜王山(雪野山)と南に聳える竜王山(鏡山)です。昭和30年の町村合併により、2座の竜王山に囲まれる町となったため「竜王町」の名前が生まれました。

 

 鏡山(竜王山)の中腹にある、聖徳太子伝説を持つ雲冠寺跡は、祈りの小部屋で「どうやら雲冠寺は、水の生まれるところを聖地として祀った寺院らしい」と紹介しました(http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=48)。そして、オオヌマズの格言として「神と武家は山頂に宿り、仏は山腹に宿る」を発しました。鏡山もその例にもれません。

 

 雲冠寺を後に鏡山の山頂を目指します。なだらかな山容の鏡山なので明確なピークはありません。山頂からわずかに下ると木造の建物が見えてきます。これが鏡山竜王宮の拝殿です。本殿は?拝殿に向かって下りながら振り向くと、そこには息をのむような光景が待っています。折り重なった巨岩の群れがあり、その根元に小さな祠が祀られています。どうやらこの祠が竜王宮のようです。

 

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竜王宮の磐座
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結界

 

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竜王の祠

 

 祠の上には、巨大な岩盤が折り重なるように岩が覆いかぶさり、その根元には注連縄が巻かれています。岩の重なりからは自然の胎動を感じさせるような、異様なオーラがほとばしっています。思わず柏手を打ちました。「そのパワーをオオヌマズに少し分けてください」

 

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祠に覆い被さる岩

 

 この岩の折り重なりこそが、竜王なのでしょう。祠がありますが、これは、社殿を伴う神社祭祀が一般的になってから建立された、後付けの施設と思われます。祭祀の対象はあくまでも、鏡山の中から突き出た、鏡山のパワーが凝縮された岩の重なりであり、ここに意識された神が「竜王」です。

 

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竜神の磐座

 

 恵比寿さんでもなく、大黒さんでもなく、天照大神でもなく竜神、すなわち水神が、鏡山の山頂に意識されているのです。鏡山の麓には幾つもの溜池があり、鏡山から生まれた水を溜め、そして、田用水として使われています。鏡山が生み出す水は、人の命を養うかけがえのない宝です。その鏡山を水の神として崇めるのは当然の心象で、祈りの対象として水の神である「竜神=竜王」が招かれたのも、当然の成り行きでしょう。(そう言えば、三上山山頂の磐座も竜神さんでした)

 

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竜神の磐座

 

 水という、自然物に対する祈りが山頂の竜王宮となり、この祈りに仏教が融合した結果、山腹の雲冠寺の祭祀が生まれたのでしょう。仏式での祈りも、神式での祈りも、水を得たいという心象において変わることはありません。何故、異なる祀り方をするのか?それは、様々な方法で、沢山お祈りしたほうが、神様も気分が良いはずです。祭祀の基本は神様を喜ばせてその気にさせることにあります。

 

 最近まで、竜王宮の拝殿では麓の鏡の人たちにより、雨乞いの踊りが奉納されていました。神様を喜ばせて、その気にさせて水を恵んでもらうためです。しかし、時代の流れとともに、山まで登るのが大変、ということで、踊りは無くなり、神事のみが行われているようです。

 

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磐座から見下ろす拝殿
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貴船神社の鳥居

 

 竜王宮を後に、鏡の里に向かって下山します。途中に「貴船神社」の鳥居が建っています。「竜神様」は、神道の体系の中には登場しない(法華経などのお経典には登場しますが)、土着的神様なので、箔をつけるため、神道における水神の代表格である「貴船の神」を迎えたのでしょう。でも本当の神様は、岩に宿る「鏡彦」或いは「鏡姫」、もしかすると男女二柱の、山に宿り里を見守る土地固有の神様なのでしょう。

 

比叡山の衣掛岩  大津市坂本本町

  • 2020.05.07 Thursday
  • 06:47

    

 比叡山からは多くの川が生まれて、琵琶湖に注いでいます。中でも、延暦寺西塔と横川の間に鎮座する比叡山地主神社を水源とする大宮川は水量も多く、山麓の灌漑用水として重要な役割を果たしてきた川です。名前の由来は、日吉大社の境内を流れ、里に下ることから名付けられたと考えられます。大宮川は、日吉神社の境内を流れています。日吉神社の立地は、無論、神体山である八王子山を意識していますが、比叡の山から生まれる大宮川も強く意識した立地のように思えます。

 

 この大宮川が八王子山の南麓付近に差しかかると、いくつもの滝をかける激流となり、深い谷を刻むようになります。この激流の左岸に屹立している岩が「衣掛岩」です。大宮川に沿って敷設された大宮川林道から見ると、谷底からほぼ直立して立ち上がる岩盤があり、その上に天を衝く塔のような岩が立っています。谷底からの高さはよく判りませんが、地形図から見る限り、控えめに見て50mは超えているようです。

 

01衣掛岩上半分(全景は写せません).JPG
衣掛岩上半分(全景は写せません)

 

 衣掛岩という優美な名前からは、余呉湖の「衣掛の柳」のような、天女伝説を思い浮かべてしまいますが、その名前の由来は良く解りません。いろいろと調べてみると、中世から近世にかけて流行した芸能の「説教節」で語られる「愛護の若」に由来するようです。

 

 愛護の若の説教節は、山王権現の縁起を語る話です。そのあらすじは“嵯峨天皇の時代、左大臣清平が、長谷の観音様に子供が授かるように祈ったが、観音様は「授けてもええけど、子が生まれたら、近親者が代わって命を落とすけど・・」というと、清平は「かまへん」と言ったので観音様は子供を授けた。この子が愛護の若。ところが、誰も死なない。若が13歳の時、奥方が「観音様もいい加減なことを言う。どうもあらへんやんか」といったのを聞いた観音様は激怒し、奥方の命を奪った。清平は、後添を迎えようとするが、この後妻が、超絶美少年に育った若に横恋慕。これを拒絶した若を逆恨みして、激しい折檻を加える。これを手白猿(比叡山の象徴)や、亡き母の力で切り抜け、細工人(延暦寺隷属する職人)などの助けを借りて、延暦寺に身を寄せようとするが、延暦寺の関係者はこれを追い返してしまう。紆余曲折。悲観した若は比叡山中をさまよい、霧生滝の傍らの松の木に衣を掛け、滝に身を投じて死んでしまった。これを知った関係者や手白猿までが次々に滝に身を投じて死んでしまった。後に若は山王大権現として祀られることになる”という、救いのないお話です。

 

  この時、若が衣を掛けた松が、いつの間にか岩に代わってしまったようです。確かに、衣掛岩のもとには幾つもの滝が懸かっているようです。確かに滝音が聞こえるのですが、オオヌマズの体力と技術では、とても降りることができません。

 

02比較的見やすい滝壺(衣掛岩下の滝は見えない).JPG
比較的見やすい滝壺(衣掛岩下の滝は見えない)
03林道横の滝壺.JPG
林道横の滝壺

 

 対岸から、この衣掛岩の先端近くに行くことができます。八王子山から奥総社を経由する飯室谷回峰行の行者道を歩くと、唐突に3mほどの岩が崖の上に立っている所に出くわします。いかにも山中を漂う神が、一休みしたくなるような岩です。

 

 衣掛岩の特異な形状は、古くから神の宿る磐座として祈りの対象となっていたのでしょう。まして、大宮川の流れが急激に変化する滝を見下ろすように立つ岩です。しかし、今でこそ大宮川林道があり、比較的容易にその姿を拝することができますが、かつてここは、人の近づきがたい恐ろしき秘境だったのではないでしょうか。それ故、滝に身を投じた愛護の若の悲劇と結びつけられたのかもしれません。

 

04行者道の横に屹立する名もなき巨岩.JPG
行者道の横に屹立する名もなき巨岩
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衣掛岩の背面
06衣掛岩の背面(これだけでも十分にパワー).JPG
06.衣掛岩の背面(これだけでも十分にパワー)

 

 背後の山肌に咲くタムシバの花を背に、青空に向かって伸びあがる衣掛岩は、比叡に宿る玉依姫が、滝壺で密かに水浴びするため、着衣を掛けた岩のようにオオヌマズには見えました。時代と環境に応じて新しい縁起が生まれてもよいのでは。

 

07タムシバの白い花が映える.JPG
07タムシバの白い花が映える
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タムシバの白い花
09よく見ればスズメバチの巨大な巣.JPG
よく見ればスズメバチの巨大な巣

 

* よくよく衣掛岩の谷側を見ると、巨大なスズメバチの巣が掛けられています。そのすぐ後ろが行者道からアプローチする画像06・07です。スズメバチは古い巣は使いませんが、スズメバチの活動期には近づかないほうが無難だと思います。オオヌマズの老婆心。

慈忍和尚廟 比叡山三大魔所 大津市坂本本町

  • 2020.05.04 Monday
  • 17:24

 

 比叡山には、三大魔所(四大魔所とする場合もあります)と呼ばれる聖地があります。

「魔」とは、仏教では「修行に励むことを妨げるもの」とされています。仏教の聖地に何故「魔所」があるのでしょう。しかし、「魔」には、「恐るべきもの」「不思議」「神秘」といった意味もあります。比叡山三大魔所の「魔」は、後者の意味が強いように思えます。

 

 さて、三大魔所の一か所に「慈忍和尚廟」があります。(残りの魔所は何れ紹介します。)

 

 慈忍和尚とは、延暦寺中興の祖として、現在の延暦寺の基礎を作った慈恵大師良源(10世紀代)の高弟で、19代天台座主にまでなった僧です。(因みに良源の廟も三大魔所の一か所です)

 

 天台座主にまでなった僧の墓が何故、魔所に?

 

 良源は衰退しかけていた延暦寺を、天皇や貴族の帰依を獲得することにより、劇的に復興させました。しかし、この事は延暦寺の世俗化を招き、本来の仏道修行を蔑にする僧も現れるようになりました。

 

 このような状況の元、慈忍和尚は、貴族の子息であったにもかかわらず、仏道修行に明け暮れ、天台座主になってからも厳しい修行を続けました。慈忍和尚には次のような伝説が語られています

 

“戒律を守り、仏道修行を行うことに厳格であった慈忍和尚は、亡くなると、一つ目で一本足の妖怪に姿を変えて、夜な夜な延暦寺の世俗的な僧のもとに現れ『うりゃ!似非坊主(えせぼうず)、僧の本分を忘れ、修行をさぼったら承知せんぞ。おんどりゃー!』と、鉦を叩いて脅しつけ、山(延暦寺)から下りざるを得ないようにさせたという。”

 

 慈忍和尚は、自ら妖怪(魔道)となり、延暦寺の本分を守ろうとしたのです。まさに「恐るべき=魔」。

 

01延暦寺東塔総持坊に掲げられた慈忍和尚.JPG
延暦寺東塔総持坊に掲げられた慈忍和尚

 

 慈忍和尚廟は、延暦寺横川の別所として開かれた飯室谷にあります。飯室谷は、不動堂を中心とした飯室谷回峰行の拠点寺院として、今も多くの参拝者が訪れています。不動堂の横に大阿闍梨が修行の生活を送る松禅院があり、苔むした古式の石垣の間を通ると、慈忍和尚廟があります。

 

02飯室谷不動堂.JPG
飯室谷不動堂
03慈忍和尚廟に続く石垣の道.JPG
慈忍和尚廟に続く石垣の道

 

廟の前には鳥居が建ち、見事な杉の巨木の回廊が続きます。植林されたものと思われますが、県下でも有数の杉の巨木達です。この辺りから既に、ただならぬオーラが降り注がれるのを感じます。

 

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慈忍和尚廟入り口
05慈忍和尚廟巨木が迎える.JPG
慈忍和尚廟巨木が迎える
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慈忍和尚廟
07慈忍和尚廟.JPG
慈忍和尚廟

 

 慈忍和尚の廟は、巨木の回廊の奥にあり、石の瑞垣の中に、石柱に丸い帽子を載せたような質素な墓石が静かに鎮座しています。時として、供養の蝋燭が燈されていることがあります。薄暗い森の中に蝋燭の炎が揺らめき輝く光景は、思わず背筋が寒くなるような異様な「何か」を感じさせます。慈忍和尚の遺志はいまだに生きている。

 

08灯が点る.JPG
灯が点る
09灯.JPG

 

 戒律を守り修行に没頭する。これは延暦寺のお坊さんの場合で、一般人の価値観とは違います。しかし、慈忍和尚の放つオーラは、延暦寺の僧にのみ、放たれているのではなく、生きるために働く者、全てに向けられています。無論、オオヌマズにも。

 

「どんな境遇にあっても、本分を果たすために学ばんか!そして行動せんか!」

 

「言い訳は聞かぬ。今だから出来ることが有る。それを見つけんかい!サボるな!」

 

「風は必ず変る。」

 

 一つ目一本足の妖怪の姿が、見えたような、そして、叱られたような気がしました。 

飯道神社 巨岩に宿る極彩色の姫神 甲賀市信楽町宮町

  • 2020.05.01 Friday
  • 20:40

 

 オオヌマズの玉手箱「祈りの小部屋」で「飯道寺」のお話をしました(http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=43)。 現在、飯道山の山上には、飯道神社(いいみちじんじゃ)のみが、残されています。明治政府は、神道を天皇を頂点とする政治の思想的な根拠として利用するため、仏と神を峻別しました。神仏分離令です。

 

 元々普通の日本人は、神様と仏様を区別していませんでした。ご利益をもたらしてくれれば神様でも仏様でも何でも良いのです。その結果、神仏が一体となった信仰形態が定着していました。仏堂の中に祀られている仏様、特に密教系の仏様は、日本の神様と分かちがたく融合した神として、人々に恵みを与えていました。この事(日本の文化)が、明治の指導者には理解できませんでした。結果、多くの仏教的な文化遺産が失われた事は、衆知のことです。宗教を政治に利用すると、ろくなことになりません。

 

 さて、山上に残された飯道神社にお参りします。宮町からの坂道を30分ほど登ると飯道寺の跡に着きます。途中で、祈りの小部屋で紹介した弁才天堂にお参りします(http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=44)。最後の石段を上ると眼前に巨岩が屹立し、その頂上には五輪塔らしき石造物が安置され、その元には役行者の石像も安置されています。ここが、山岳修験の聖地であることを実感します。

 

01神社の入り口に屹立する巨岩IMG_5336.JPG
神社の入り口に屹立する巨岩

 

 参道を進むと本地堂跡(薬師如来で現在は、麓の宮町区大日堂に安置されています)、行者堂があり、その奥に鎮座する鮮やかな朱色の社殿が、目に飛び込んできます。飯道神社本殿です。祭神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・速玉男命(はやたまおのみこと)・事解男命(ことさかおのみこと)の三柱の神々がお祀りされています。

 

02霧の中の本殿.JPG
霧の中の本殿
03飯道神社本殿.JPG
飯道神社本殿

 

 本殿は正面三間の入母屋造で、正面が三角形の千鳥破風とアーチ形の軒唐破風を重ねる豪華な作りで、屋根の複雑なカーブを檜皮葺が見事に処理しています。日本建築の持つ美の極致です。側面と背面は同じく朱色に塗られた板壁で覆われています。これは霧除といい、山上の風雪・雨風から本殿の建物を護るために付けられたもので、解体修理の分析によれば、建設当初から付けられていたようです。神様のお家を何時までも奇麗に保ちたい、そんな思いを感じます。

 

 本殿の軒回りは、花鳥霊獣の彫刻と極彩色に彩られています。木鼻の像がなまめかしく笑っています。建築されたのは慶安二年(1649)、日本の建築が最も華やかになった時代です。「詫び寂び」の世界も良いですが、極彩色の世界にも心惹かれます。案外、日本人の本性は派手好きなのかもしれない。と、一人で納得するオオヌマズでした。

 

04本殿の彩色.JPG
本殿の彩色
05像が笑う.JPG
像が笑う
06複雑な屋根の曲線が見事に処理されている。檜皮葺ならではの美.JPG
複雑な屋根の曲線が見事に処理されている。
檜皮葺ならではの美

 

 お参りをして、改めて本殿の周りを見ると、そこには息をのむような光景が広がっています。本殿に覆い被さらんばかりに、囲繞する巨岩の群れがあるのです。中でも、本殿の右後ろの巨岩から激しいオーラが発せられています。元は一つの岩だったのでしょうか、二つに割れ、本殿の背後に屹立しています。

 

07本殿の後ろに屹立する磐座(霧の中).JPG
本殿の後ろに屹立する磐座(霧の中)

 

 神社の社殿は、仏教が日本に渡来してから寺院建築の影響を受けて成立した施設で、本来は、自然物を神として祀っていました。おそらく飯道神社の本体は、この割れた岩なのでしょう。飯道寺跡を紹介した「祈りの小部屋」で、“飯道山は弁才天が地主神である”という説があることを紹介しました。一見して母性を感じさせるこの岩は、弁才天(=山が持つ様々なものを生み出す母性)の宿る磐座だと感じました。

 

08磐座.JPG
磐座
09磐座.JPG
磐座

 

 飯道山の周辺では、“飯道山に雲がかかると雨が降る”“飯道山から流れる水を入れると稲がよく育つ” 等と言われているようです。飯道山は水を生む山で、その神が弁才天という女性神で、その象徴がこの磐座です。

 

 現在本殿に祀られている三柱の神々は、飯道寺が熊野修験と結びついて以降に招かれた神であり、本来の主は弁才天、いや、弁才天も後付けで、「(仮称)飯道姫(いいみちひめ)」なのでしょう。そう考えると、この磐座が一層神々しく見えてきました。

 

10拝殿越しに見た本殿と磐座.JPG
拝殿越しに見た本殿と磐座
11本殿と磐座(雪).JPG
本殿と磐座(雪)

 

オオヌマズは祈ります。

 

「姫様、諸々たんのまっせ。この停滞した空気を姫様の力で吹き飛ばしてください。」

 

すると

 

「任せなさい」という、お言葉が聞こえたような。

 

12拝殿の横にも磐座風の露頭.JPG
拝殿の横にも磐座風の露頭

三上山山頂の竜王宮 野洲市三上

  • 2020.04.25 Saturday
  • 20:39

 

01登拝道から望む三上山.JPG
登拝道から望む三上山

 

 割岩を後にしたオオヌマズはズンズン(実際はヨロヨロ)と岩肌をよじ登ります。所々で眺望が開けます。北西方向には、白鬚神社のある明神崎が、目を南に転じると比良山系、そして薬師の滝が懸かる谷(http://omi-rekishi.jugem.jp/?day=20200404)が見えます。さらに上って振り向くと比叡山系が見え、八王子山の姿も確認できました(http://omi-rekishi.jugem.jp/?day=20200325)。

 

02湖西方面(明神崎).JPG
湖西方面(明神崎)
03三上山から八王子山を望む(中央の白いところが牛尾宮と三宮神社)jpg.jpg
三上山から八王子山を望む
(中央の白いところが牛尾宮と三宮神社)

 

 登拝道の横でミツバツツジの紫色が笑っています。展望台と名付けられた岩棚を抜けると、頂上の広場に飛び出ます。

 

04ミツバツツジが笑う.JPG
ミツバツツジが笑う

 

 頂上は広く岩が露出し、ここに鳥居が建ち、その奥(東)に竜王宮が鎮座しています。お宮にお参りをして振り返ると、鳥居越しに注連縄を播いた岩が鎮座しています。この岩こそが三上山の中心で、竜神が宿る磐座です。山頂の周辺は樹木が生い繁り、西南方向への眺望しかありませんが、樹木がなければほぼ360°の眺望が得られるはずです。「山には、その山から見渡せる範囲を司る神が宿る」これはオオヌマズの格言です。三上山には三上山から見える範囲を司る神が宿り、対面する山の神々と交歓するように思えます。三上山と比叡山(八王子山)の関係を見れば、両者の視線の交わるところ(境界線)が琵琶湖なのでしょう。琵琶湖を介して近江の神々が語り合っている。

 

05山頂の竜王宮.JPG
山頂の竜王宮

 

 失礼して、磐座の横に立たせていただきました。ここからの眺望こそ「神の視線」です。野洲・守山・栗東・草津・大津方面が一望できます。絶景。そして足元を野洲川が、ゆったりとうねりながら、琵琶湖に向かって流れていくのが見えます。

 

 三上山は、湖南の山々の縁辺に立っていますので大変目立ちます。そしてその足元から湖南の平野を涵養する野洲川が流れ出ています。湖南の平地に住まう者にとって三上山は、野洲川を生み出す山(聖地)として、意識されてきた事は想像に難くありません。それ故、山頂に宿る神として「竜王(=水神)」が祀られるようになったのでしょう。

 

06鳥居越しの龍神の磐座.JPG
鳥居越しの龍神の磐座
07龍神の磐座と湖南平野.JPG
龍神の磐座と湖南平野

 

 磐座に宿る神は日々、麓に広がる光景と、その移ろいを見つめているのです。

 

 神の呟きが聞こえてきました。

 

 「なんやしら、最近人間たちに元気がないな。」

 

 「何かにおびえているようだ。」

 

 「沈滞している。私を登拝する人もめっきり減った。」

 

 「無理もないか。」

 

 「人が私の麓に暮らし始めて一万年ほど経つか。たった一万年の中でも、人を襲う危機は何度もあった。しかし、その度に、

  あ奴らはしぶとく生き残って来た。」

 

 「今回も同じこと。人の短い一生の間には一度しかない危機かもしれないが、長い繰り返しの一コマにしか過ぎない。」

 

 「私は何となく人間という生き物が好きだ。彼奴らのために気を放ってやるとするか。」

 

 思わずオオヌマズが応えます。

 

 「神さんおおきに。ほんまにたのんまっせ。」

 

 「世の中落ち着いたらお礼に来ます。」 

 

  「おう、お前もそれまでもう少し足腰鍛えておけよ。危なっかしくてみておれんわ。」

 

  「ほっといて」

 

 と言い返して、ヨロヨロと山を降るオオヌマズでした。

  背後に三上山の神のオーラを感じながら。

 

   

08三上山の麓を流れる野洲川(奥の山並みが比叡山系・手前の杜が御上神社).JPG
三上山の麓を流れる野洲川(奥の山並みが比叡山系・手前の杜が御上神社)

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