九輪草 神の宿る華

  • 2020.05.23 Saturday
  • 21:51

 

 雨が上がり。思い立って九輪草を見に行くことにしました。山城歩きで九輪草が沢山生えているのは知っていましたが、花の季節に行ったことがありませんでした。

 

 九輪草とは日本原産で、初夏に咲く、草丈が80冤召蠅砲泙農長する大型のサクラソウの仲間です。沢沿いの比較的湿ったところを好み、時として群生します。県内でも比較的よく見かける山野草で、長浜の己高山の鶏足寺跡にも見事な群生地があります(このお話は何れ)。

 

 九輪草の名前の由来は、仏塔の上に立つ相輪(九輪)に由来します。相輪とは、元々お釈迦様のお墓である土饅頭(スツーパ)の上に建てられた軸に、複数の輪を付けた飾りで、この輪が九つあることから九輪とも呼ばれます。お釈迦様を祀る土饅頭と九輪を高く持ち上げ、よりゴージャスに荘厳すると仏塔になります。しかし、柱状に高くすると締まりがなくなるので、柱の途中に複数の屋根を付けて飾ります。これが三重塔や五重塔です。さらに、違った意味を塔に込めると宝塔や宝篋印塔などになっていきます。何れにしても、九輪とはお釈迦様の教えを象徴する構造物なのです。

 

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延暦寺相輪トウ全体(相輪とその基礎を特出しし
たまれな造形)
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延暦寺相輪トウ部分

 

 

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石山寺多宝塔相輪(国宝多宝塔の相輪)
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西明寺宝塔相輪(石の造形にも相輪がある)

 

 九輪と九輪草がどう関係するのか?九輪草の花は、軸の周囲に輪状に付き、下の段から咲き始め、少し間隔を置いて次の段の花の輪が咲き、を繰り返し、花の輪と花が落ち実を着けた花軸の輪が何段にも重なり、あたかも仏塔の九輪のように見えることから付けられた名前です。

 

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九輪草5段目まで解る

 

 沢沿いの林道をどんどんと登って行きます。始め深い谷底を流れていた沢が、砂防堰堤や自然の滝の段差を繰り返すうちに、道に近づき、その流れが間近に見えるようになって来ます。沢と道の高さが、さほど変わらなくなる所まで登ると、山道の傾斜が緩くなります。沢が近いということは、湿気が高いということ。あちこちから蛙の呟きが聞こえます。沢音と蛙の二重唱を楽しみながら歩くと、濃いピンクの明かりが。

 

 咲いていた。九輪草です。はじめ数も少なかった九輪草ですが、沢を上るほどに徐々に花数を増していきます。大群落とは言えませんが、結構な数の花がまとまって咲いているところが何か所もあります。沢の岸に沢水に洗われる様に咲いている株もあります。花はまだ咲き始めのようで、殆どがまだ一段。日当たりの良いところに咲いているものの中には三段ほどの花をつけているものもあります。

 

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九輪草のプチ群落

 

 雨上がりですので、花にはまだ水滴が残っています。花に残る水滴は、お陽様が出てくれば蒸発して空に戻ってゆくのでしょう。でも、今の瞬間は花から水が生まれ、これが地に落ち、沢の流れとなっていく、そのシーンのように見えます。この花に命を育む力が宿っている。そんな神々しさを感じる一コマです。

 

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九輪草 これから花を咲き続ける

 

 「花には自然の「力=神」が宿り、花を人の空間に迎えることにより、人は自然の力を身に着けることができる。」こんな信仰を日本人は持っているように思えます(いや、人類の普遍的な感性かもしれません)。だから、折あるごとに人は花を飾り、花を贈るのです。花に宿る自然の力を頂くため。(病気のお見舞いに花を贈るのはその典型です。花に宿る自然の力で病を克服してください)

 

 道沿いにポツンと、或いは群れを成して咲く九輪草の一つ一つに山の、自然の小さな神様たちが宿っているように見えました。

 

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輪の花 九輪草

 

 しかし、何か変です。鹿の食害により、この山の林床には何も生えていません。多くの山野草が鹿に食われてしまったのに、九輪草は元気に咲いています。実は、九輪草は体に、鹿が嫌がる毒を仕込んでいるのだそうです。可憐に見える花ですが、鹿を撃退するほどのしたたかな力を花の中に仕込んでいたのです。

 

 九輪草は、可憐で、したたかで、気ままな神様たち。放っておいたら何もしてくれません。でも、お祈りをしたら、気が向けば何か叶えてくれるかもしれません。駄目元でお祈りすることにしました。

 

 「ありがたい名前の九輪草さん。鹿ワクチンを身に付けた九輪草さん。気が向いたらあんたの仲間の、悪さする小さき神たちに[いい加減にせい。もう十分やろ]と言ってやってください。」

 

 「ゆうといたるわ。でも、最後はあんたらが何とかせにゃならんのやで。あんたらのご先祖たちもそうしてきたやろ。」

 

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九輪草から生まれる水
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水滴の中の九輪草

 

 妙に納得。帰り道、琵琶湖が青く輝いていました。今、出来ることをしよう。

比叡山悲田谷の山道

  • 2020.05.20 Wednesday
  • 20:36

 

 比叡山延暦寺は、比叡山中に展開する三塔十六谷といわれる堂舎群により構成されており、これらを結ぶ山道が、比叡山中を縦横に走っています。中でも有名なのが、比叡山の山上山下を歩く回峰行の道でしょう。

 

 現在、回峰行は二つのルートで行われています。メインは、延暦寺東塔無動寺谷を起点とする回峰行ルートです。もう一つが、酒井雄哉大阿闍梨が復活させた飯室谷回峰行の道です。この道は、比叡山横川の飯室谷不動堂を起点として、日吉大社から八王子山を経て大宮川を横切り、延暦寺へのメインルートである本坂に向かい、ここから西塔→横川→飯室谷へと回峰する道です。この中で、大宮川から本坂までの道が、悲田谷道と呼ばれています。

 

 悲田谷の地名の由来はよくわかりませんが、 古代の貧窮者・病者・孤児などの救済施設である悲田院に由来するのか、と考えたりしています。仏教の慈悲を表わそうとしたのではないでしょうか。でも、字面、音からは、何やら寂しげな雰囲気が伝わってきます。

 

 八王子山からの行者道を下り、大宮川に架かる丸木橋を渡ると大宮川林道に当たります。林道を少し下り、右手を見ると、旧大宮川発電所の水路橋のアーチが見えます。ここが悲田谷道の入り口になります。

 

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悲田谷の入り口

 

 急な木階の坂道を上ると、よく整備された檜の人工林の中に入っていき、さらに進むと右手に石仏、石塔の集積が見えてきます。近江の随所でみられる、中世に爆発的に造像され安置された石造物です。比叡山の場合は、比較的大型の阿弥陀石仏を中心に、小さな石仏を安置していることが多いように思えます。よく見ると頭をとがらせ筋を入れた「板碑」状の石仏があります。小石仏の起源はよくわかっていないのですが、上部を尖らせ、その下を窪ませ、さらにその中に仏を刻むタイプが多いことから、板碑に起源を求める場合もあるようです。いずれにしても、何処かの墓地に安置されていた石造物が、ここに集積されたものでしょう。

 

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石造物群
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板碑のような石仏
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04.板状の空風輪(この正体はゴール地点で解る)

 

 手を合わせ、さらに道を進むとまた石造物の集積があります。900mほどの山道なのですが、途中に6か所ほどの石造物の集積があります。中には50m程も道沿いに一列に石仏が安置されているところもあります。地図を確認すると、左手の尾根上には東塔に由来する墓地があり、さらに、慈覚大師円仁の廟も尾根上にあります。

 

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一列に並べられた石造物

 

 悲田谷は延暦寺で修業した僧、或いは僧に使えた者たちの墓地の下を通っているようです。長い年月の間、尾根から流され、土に埋もれた墓石たちが、何かの拍子に掘り出され、ここに再び安置されたのでしょう。主の冥福を祈るために安置された石造物たちですが、今は、道を行く人たちの安寧を祈る「もの」に変わったようです。しかし、祈りの対象であることには、何の変りもありません。石に宿るモノたちは、如何なる祈りにも応えてくれそうな気がします。「早く落ち着いた日常に戻れますように」

 

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怪しきまなざし

 

 最後の石仏たちに別れを告げると勾配が急となり、斜面をジグザグに上り、見上げると尾根の上に空が見えます。そして、杉の巨木の根方に着くと急に視界が開け、本坂に行き当たります。来た道を振り返ると木の間越しに琵琶湖の水面が見えます。

 

 植林されていなかったら、石仏たちにも琵琶湖が見えることでしょう。いや、元、石仏たちが安置されていたであろう尾根上からは、天台薬師の浄土である琵琶湖がはっきりと望むことができたはずです。琵琶湖の神様にもお祈り「早く落ち着いた日常が戻りますように」

 

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本坂に飛び出る
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振り返れば琵琶湖。感謝
09本坂との合流点にある「覚運廟」板状の石造墓標。画像04はこのような石造物の頭が割れたものか.JPG
本坂との合流点にある「覚運廟」板状の石造墓標。
画像04はこのような石造物の頭が割れたものか

雲冠寺跡と聖徳太子 竜王町薬師

  • 2020.05.09 Saturday
  • 10:36

 

 聖徳太子。オオヌマズの世代の人間にとって聖徳太子は、1万円札のお顔です。聖徳太子=お札。この有り難い聖徳太子ですが、近江には聖徳太子伝説が極めて濃密に分布しています。

 

 近江には、聖徳太子が開いた寺院や、聖徳太子が刻んだ仏像等の縁起を伝える寺院が、正確な数はよくわかりませんが、オオヌマズが把握しているだけでも100を軽く超えます。特徴的な縁起は“聖徳太子は近江に48か所の寺院を建立する誓願をたて、実際にこれを建立した。**寺は*番目に建立された寺である”という感じの縁起です。仮にこれが本当だとしても、この倍以上のお寺が“聖徳太子に関係している”と主張していることになります。何故?その秘密は何れ、追々と。

 

 さて、聖徳太子縁起を持つ寺院跡に、竜王町の鏡山の中腹にあった雲冠寺(うんかんじ)があります。伝えられた縁起に拠れば、“推古天皇六年(598)に推古天皇の勅願所として聖徳太子が創建し、自ら刻んだ観世音菩薩を本尊とした”とされています。聖徳太子が登場するのはこのシーンだけで、続いて“衰えた雲冠寺を最澄が復興し大いに栄えたが、織田信長の焼き討ちに逢い廃寺となった”と続きます。近江のお寺によくあるパターンの縁起です。

 

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アエンボ(コバノミツバツツジ)のお出迎え
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鳴谷池

 

 縁起の多くは「史実」ではありません。だからといって縁起を否定する必要はないと考えています。近江の寺院縁起に聖徳太子が多く登場するのには、それなりの理由が・・・。  その秘密にアプローチすべく、雲冠寺跡を目指します。雲冠寺のあった鏡山は多くのハイカーが訪れる人気の山で、遊歩道がよく整備され道に迷う心配はありません。三井アウトレットパークからでも、希望が丘リッチランドから登ってもやがて鳴谷池に着きます。この池は鏡山から生まれた水を溜めた用水池です。ここから小さな沢に沿って登ります。やがて沢の水が消え、雲冠寺跡に向かう道に入ると、明らかな谷地形の中を道が通っています。と、やがて石垣で固めたと思しき法面があり、この上に明らかに人工的に造成された平坦地が広がっています。雲冠寺跡です。

 

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雲冠寺跡石垣
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雲冠寺跡井戸跡

 

 雲冠寺跡には複数の平坦地があり、石造地蔵菩薩像、三尊仏を刻んだ摩崖仏が残されています。いずれも彫りは浅く、江戸時代に入ってからの遺品のように見受けられました。三尊石仏のある平地の下には、横目地を通した古式の石垣があり、石垣に沿って、石で固められた「井戸」があります。そして三尊仏の背後には巨大な岩が屹立しています。

 

 巨岩の元に三尊仏があり、その元に井戸がある。雲冠寺跡は、地形的には谷の源頭に当たります。ここから水の元が生まれ、やがて地表に顔を出し、沢となり、鳴谷池に集い、さらに流れて善光寺川に入り、竜王の田畑を潤していく。雲冠寺は水源に立地していたお寺。いや、水源を祀るために建立された寺院である、と考えてよさそうです。

 

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三尊石仏
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三尊石仏

 

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石仏

 人間の生き死ににかかわる仏教(滅罪寺)は、当然のことながら人間の暮らす空間に建立されます。対して延暦寺に代表される、密教系の寺院の多く(祈願寺)は、山地に建立されます。これは、自然に宿る神との融合したパワーにより、様々な祈願を受け止め、これを叶える、という宗教的なスタンスによるものです。

 

 そう考えると、聖徳太子縁起を持つ寺院の多くが山に立地します。ここに聖徳太子と近江との関係を解くヒントが。

 

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雲冠寺跡の巨岩
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水が旅立つ

 

 

 

 

 オオヌマズが発する格言に“神と武家は山頂に宿り、仏は山腹に宿る”があります。寺院は僧が暮らせるところでないと建立できませんが、神様は気配なので山の天辺でも暮らすことができます。武家は?(この話はいずれ)

 

 そう考えると、鏡山のほぼ山頂に、水の神である「竜神」を祀る竜王宮が鎮座しています。・・・次回パワースポットの小部屋『鏡山の竜王宮』に続く。

 

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フデリンドウがお見送り

飯道山の飯道寺跡 山上の要塞? 甲賀市信楽町宮町

  • 2020.04.30 Thursday
  • 20:51

 

 野洲川左岸に伸びる山並みの一角に飯道山があります。飯道山にはピークが2か所あり、最高峰(664m)を古権現と呼び、伝説では和銅元年(708)に飯道寺が開かれ、和銅四年に熊野権現が勧請され、飯道権現として祀られていましたが、後にもう一つのピークの現在地に遷座した、と、伝えられています。

 

 飯道寺の平安時代から鎌倉時代後期にかけての様子は良くわかりません。しかし、鎌倉時代後期以降になると熊野三山との関係が深まり、修験道の有力寺院として発展したようです。特に室町時代には、飯道寺の梅本院・岩本院の二つの坊は、当山派修験(真言宗系の修験道)の有力寺院となり、諸国の当山派山伏を支配したようです。

 

 飯道寺の発展は、飯道山山麓の山伏たちによって支えられました。彼らは入峰修行を行うだけでなく、伊豆国・信濃国から土佐国・周防国までの広い範囲で、信者獲得活動を繰り広げ、その一環として、畿内近国の有力寺院の勧進を請負って配札(お札配り)を行いました。飯道山修験に勧進を請負わせた寺社には、愛宕神社・伏見稲荷大社・多賀大社・石山寺・竹生島宝厳寺・金剛證寺などがあります。

 

 いわばプロモーション活動ですが、この際に飯道山の山伏は、万金丹・もぐさ・神教御腹薬などの薬を配り、この事が、甲賀郡の配置売薬の起源となったとされ、さらには、山伏たちの全国をまたにかけた行動が、甲賀忍者のイメージを作り上げました。

 

 隆盛を極めた飯道山修験ですが、明治維新の神仏分離令により、山上に祀られていた飯道神社(いいみちじんじゃ)を除き、全て破却されてしまいました。(飯道寺と飯道寺 http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=43

 

 現在、山上には飯道寺の坊跡が壮大な遺跡として残されています。各坊は石垣で固められた平地に造られ、随所に石塁も見られ、まるで山城です。

 

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飯道寺の石垣
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櫓台を思わせるような石垣

 

 さて、飯道寺には興味深い縁起が伝えられています。

“摩訶陀国の宇賀太子が日本の弁才天を慕って甲賀郡の油日岳に降臨し、寺庄村の常徳鍛冶に天女の所在を聞いたところ、天女は餉令山(かれいさん=飯道山)に行ったことを告げると、太子は大いに喜び、鍛冶一族がいくら食べても尽きることがない米を与えた。また、この時から大根も種を蒔かずとも勝手に生えるようになった”

 

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隅石垣
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坊を区画する石塁

 

 荒唐無稽なお話のようですが、「宇賀」という神が「弁才天」という神と融合した過程を語っているように思えます。この両神の合体した姿は、竹生島の本尊として祀られる竹生島型弁才天(宇賀型弁才天)であり、男女の神が交わることにより、「飯」に象徴される命を生み出す力が発露されることを示しているように思えます。また、利益に大根が登場することも、大根が男女和合を象徴する神である「歓喜天」のシンボルであることを考えれば合点いきます。

 

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湧水
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湧水を見つめ、谷の源頭部に鎮座する弁才天堂

 

 『近江輿地志略』によれば、“弁才天社が飯道山の中央にあり、この山の地主神である”という説を紹介しています。活発な山伏たちの活動を支えた大元は、水と命を生み出す女性神である弁才天に対する信仰なのかもしれません。

 

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弁才天堂

 

 飯道寺跡から信楽町側へやや下ったところに、湧水があり石組みの枡の中に水が湛えられ、この水が谷を作って流れています。そしてこの湧水を見つめるように弁財天社が鎮座しています。飯道山で生まれた水は麓の田畑を涵養する命の水です。この水を生み出す山に神意を感じたのは自然の心象であり、ここに母性の神である弁才天が迎えられたのも当然なのかもしれません。

 

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弁才天のもとから水が流れ出る

飯道寺と飯道寺 法灯を継ぐ・歴史と文化を継ぐ 甲賀市水口町三大寺

  • 2020.04.29 Wednesday
  • 13:52

 

 甲賀市水口町三大寺に「飯道寺(はんどうじ)」というお寺があります。飯道寺というと、旧信楽町と水口町の境に聳える飯道山の山上に展開していた「飯道寺」が思い浮かびます。この二つの飯道寺の関係は?

 

 飯道山の上にあった飯道寺は、現在の「飯道神社(いいみちじんじゃ)」と、これを中心に神仏が混然となって展開していた宗教施設を「飯道寺」と呼んでいましたが、明治の廃仏毀釈により、神社だけが残り、飯道寺は消滅してしまいました。ですから、現在の飯道寺と、山上の飯道寺は基本的に違う寺院です。

 

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飯道寺境内:手前が不動堂、奥が本堂

 

 ややこしいですが、三大寺の飯道寺の歴史を追うと次のようになります。

 

  • 奈良時代、良弁が三大寺に医王寺を開いた。この医王寺の坊の一つに「不動院」があり、ここに最澄が刻んだ不動明王が本尊として祀られていた。

 

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不動堂不動明王(伝最澄作)

 

  • 鎌倉時代に、この不動坊が「宝持坊」を名乗り、大山咋神(日吉大社東本宮の神様で、比叡山の神)を三大神社(三大寺の産土<うぶすな>)に勧請し「山王権現三大寺大明神(現在の三大寺日吉神社)」となった段階で、宝持坊が別当寺として神社の祭祀を司るようになった。
  • この頃、宝持坊は延暦寺の末寺となり、龍王山本覚院を名乗るようになる。
  • 本覚院は、山上の「飯道寺」への登り口にあることから、飯道寺の山口里坊の性格を持つようになる。
  • 明治の廃仏毀釈に際して、本覚院は、三大寺日吉神社との関係が絶たれ、日吉神社の本地仏であった十一面観音と地蔵菩薩が本覚院に移された。

 

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飯道寺十一面観音(日吉神社本地仏)
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飯道寺地蔵菩薩(日吉神社本地仏)

 

  • この時、山上の飯道寺も廃仏毀釈により廃されたが、その長い歴史と文化が失われることを惜しんだ住人が、叡山延暦寺に飯道寺に復興を働きかけ、明治25年に延暦寺の認可により、本覚院が「金奇山飯道寺」の法灯を継ぐこととなった。
  • この頃、仏教が圧迫される中で村内の八幡堂常福寺が維持できなくなり、本尊阿弥陀如来が飯道寺に遷された。

 

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飯道寺阿弥陀如来(常福寺旧仏)

 

  • この段階で、元々いらっしゃった不動明王を不動堂を建立してこの本尊とした。
  • 客仏の阿弥陀如来を「弥陀八幡大菩薩」として本堂の厨子の中に秘仏として安置し、脇侍として日吉神社から遷って来た、十一面観音と地蔵菩薩を安置した。
  • 昭和25年、阿弥陀如来・十一面観音・地蔵菩薩が重要文化財に指定。
  • 昭和40年に重要文化財収蔵庫が完成したのを機に、指定された3体の仏達は収蔵庫に遷され、現在に至っている。

 

 現在収蔵庫の中におられる3体の仏様は、直接山上の飯道寺とは関係のない方々ですが、長い歴史の中で、それぞれ居場所を変えつつも、飯道山麓の人たちの祈りを受け止め、その暮らしを見つめ続けてきました。

 

 現在、飯道寺は村の有志の人たちの手により維持され、オオヌマズのような参拝者を迎えてくれています。

 

 仏様達の詳しい説明は省略。来訪されてご自分の眼と感性で、仏様そしてお守りしている村の方々との対話を楽しんでください。

 

 日吉神社への参拝も忘れずに。大型の「春日造」本殿が2棟並ぶ県内でも特異な社殿配置を持つ神社です。また境内の巨木達にもお参りしてください。何とも言えないオーラを感じるはずです。

 

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日吉神社本殿
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日吉神社境内の巨木

 

 仏様への参拝には予約が必要です。甲賀市観光協会0748−60−2690にお問い合わせください。

圓満院庭園の山桜 落花に託す想い 大津市園城寺

  • 2020.04.19 Sunday
  • 15:30

 

 圓満院は、天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つとして栄えた寺院です。その中心となる宸殿は、二代将軍徳川秀忠の娘(もちろん母はお江)和子が、後水尾天皇に入内した際に御所に造営したもので、その後、和子が生んだ明正天皇により圓満院に下賜され移築されたという、由緒正しい建物です。

 

 桁行20m余りの大きな宸殿の前面に造られたのが圓満院庭園で、宸殿が移築された 正保四年(1647)頃の作庭とされる、池泉鑑賞式庭園です。長等山の斜面を利用して築山とし、建物の前面と西側に矩形に池を掘り、中央に写実的な亀島を、その東に抽象的に表現された鶴島を浮かべ、鶴島には巨石を切った豪快な石橋が架けられています。亀島の背後にはこれも豪快に石を組んだ枯滝が配され、鶴島の後ろには宝塔の軸に宝筺印塔の笠を乗せた石塔が、西奥の築山上には、鎌倉時代のものと思われる七重層塔が安置され、庭にアクセントを与えています。

 

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鶴島と石橋
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亀島と桜
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庭の石塔

 

 さて、この庭の最大の見どころは、ほぼ中央に植栽された山桜の巨木です。本来、庭園は地割と景石により構成される変化を排した空間です。対して、命ある植物は年と共に変化しますので、庭園の構成としては「従」の存在です。しかし、花の咲く木、紅葉する木などの植栽は、それ自体が美しいため、その庭の主役のようになってしまう場合があります。圓満院庭園の山桜もその一例です。葉が繁る夏など、背後の石組みが、殆ど鑑賞できないような状態になってしまいます。しかし、これは文化財としての庭園の価値に立脚した評価であって、庭園を維持される方、庭園を素直に楽しもうとする方には,あまり関係のない価値観かもしれません。

 

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山桜と庭園

 

 この山桜、染井吉野より一週間程度遅れて見頃を迎えます。染井吉野の綿を重ねたような豪華さも好きですが、山桜の、渋い紅色の葉芽と真っ白な桜の花が見事にマッチした、日本的華やかさが、何かしら、日本人に琴線に触れるものがあり、染井吉野と同様にオオヌマズは好きです。

 

 今回訪れたのは満開を過ぎ、花弁が春風にもてあそばれ乍ら、はらはらと舞い落ちる日でした。満開の桜は生命の力が溢れる、そんな喜びに満ちていますが、落花は命の力が終息に向かうような寂しさを覚えます。庭を眺める人は誰もいません。

 

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冬の圓満院庭園
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春の圓満院庭園

 

 オオヌマズが桜に話しかけます。

 

 散りゆく花は、きれいだけれども、何だか寂しい気分になりますね。今の世間のような感じで、心が沈み込みます。

 

 桜が応えます。

 

 そんな事はない。毎日毎日満開だったら、有難味がないやろ。大体、私が疲れる。花は、一時の華やぎ。これから一年を過ごすための気合を入れる、打ち上げ花火のようなもの。

 

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散り初めの桜

 

 花の元にもう葉っぱが出ているやろ。これが肝心。これから長い時間をかけて、地味だけどこの葉っぱの力で体力を蓄え、冬になったら一休み。そして来年の今頃、気合を入れるために花を咲かせる。私は、ずーっとこれを繰り返し。気が付いたらこんな巨木となっていた。

 

  そうですね、変わるようでいて、長い目で見ると、何も変わらない。でも少しづつ変わってゆくのですね。貴女を見習い、自然に身を任せ、ゆっくりと生きることにします。

 

 そうしなさい。でも、体力が肝心やで。

 

 庭園の池には、山桜の想いの籠った花弁が、見事な花筏を造っていました。

 

  

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花筏

日吉大社八王子山 春の夜 神の眼差しを感じる

  • 2020.03.25 Wednesday
  • 22:39

 

 前回(2020年3月15日)の祈りの小部屋で、日吉大社八王子山に宿る男女の神様の話をしました(http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=30)。三月初旬、男女の神を迎えるための神輿が、牛尾神社と三宮神社に担ぎ上げられ拝殿に安置されます。これまで、比叡山中を自由気ままに飛び回っていた大山咋神と鴨玉依姫神の荒魂ですが、神輿が安置されると、「みあれ」の祭り(日吉山王祭)が近づいて来たことに気づき、神輿に徐々に降りて来ます。

 

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三宮神社(左)と牛尾神社(右)

 

  神輿が安置されてから、神々が神輿の乗って里に降臨するまでの間、毎晩、牛尾神社と三宮神社の拝殿に取り付けられたランプに、日吉大社の神職さんの手により火が灯されます。

 

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牛尾神社御灯
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三宮神社御灯

 

「御灯(おとう)」と呼ばれるこの灯は、夕方、ランプの中に皿(燈明皿)に灯油(石油ではなく菜種油)を注ぎ、灯芯に火を着けます。火は、灯油が燃え尽きる明け方まで点り続けます。毎日、神職さんは御灯を点すため八王子山に登りますが、神輿が通る通常の参道を登ると、とても時間がかかります。このため、西本宮の本宮と宇佐宮の間から、斜面を登る道がつけられています。「御灯道」と呼ばれる山道で、傾斜はきついのですが、随分とショートカットできます。

 

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牛尾神社の御灯(拝殿から)
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御灯が点る
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御灯道

 

 男女神の荒魂は、御灯の光を目印に徐々に神輿に近づいて来ます。御灯は、ランプの中の灯芯に点された小さな火です。神様は目が良いから見えるでしょうが、人間に見えるのだろうか?そう思い、オオヌマズは夜の八王子山の麓に出かけました。街灯が点いている所からは、八王子山の姿は何とか確認できますが、御灯は見えません。横道に入り政所の建物付近まで来たとき、何とも言えない気配を感じ、山を見ると、八王子山にオレンジ色の点が二つ見えました。御灯です。麓からもしっかり御灯の光は見えるのです。今よりも明かりが少なかった時代であれば、もっと明るく輝いて見えたことでしょう。

 

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御灯の光
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同じアングルの昼

 

 

 黒々と浮かび上がる八王子山のシルエットの中に、二つ輝く御灯の光。まるで「眼」です。巨大な怪物の不気味な眼。おりしも、ひときわ明るい金星が、八王子山に近づいて来ました。天空の光と、八王子山の二つの光が、互いに感応しあっているようにも見えます。まさに天を飛翔する神が、御灯の灯と同化しようとする光景です。そう思うと、御灯の火がチカチカと、か細くなったり、強く輝いたり変化し、ここに何者かが宿ったような感覚にとらわれました。山上に輝く二つの火が、比叡の山の神の「眼」に替わったのかもしれません。そう思うと、先ほどまで不気味に感じた「眼」が、何か大きな幸福をもたらそうとする、神々しい眼差しのように思えてきました。こんなことを神々は毎晩繰り返し、そして、人の求めに応じて幸いをもたらそうという気になり、神輿に着座し、これを見届けた人々に担がれ、降臨の日(四月十二日:日吉山王祭 午ノ神事)を迎えるのです。

 

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金星と交歓する神の眼差し

 

日吉大社八王子山 春晴天

  • 2020.03.15 Sunday
  • 16:38

 

 朝、目覚めると思いがけなくも晴天。思い立って日吉大社を参拝するため家を出ました。程なく真正面に八王子山が見え、この山頂付近に三宮神社と牛尾神社の本殿が建っているのが見えます。「そうだ、今日は八王子山に参拝しよう。」

 

 周知のとおり、八王子山は小比叡とも呼ばれ、日吉大社の神体山であるとともに、比叡山全体の神(山王)の宿る聖地です。ここに鎮座する牛尾神社には、比叡の山の神である大山咋神(おおやまくい)の荒魂(あらみたま)が、三宮神社には比叡の山の女神である鴨玉依姫神(かもたまよりひめ)の荒魂が祀られています。荒魂とは、神道学的に説明すると難しいのですが、「より、自然に宿る神の性格が強く、自由に山野を飛び回り、人に恵みを与える一方で人に自然の災厄ももたらす、扱いにくい神様」とオオヌマズは解釈しています。そして、この荒魂が里に迎えられ、丁重に祀られることにより、より多くの恵みを与える優しい神である和魂(にぎみたま)に変じるのだと考えています。

 

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右牛尾神社・左三宮神社

 

 春、4月午の日(12日)に八王子山に宿る男女の荒魂は神輿に乗り、麓の東本宮に降臨し、近江を護る和魂に変じます。これが日吉山王祭で、新たな神が生まれる「みあれ」の祭りです。新たな命を得た神の元、春を起点とした一年の営みが始まるのです。

 

  3月上旬、麓に安置してあった神輿が、山上の社殿に引上げられます。この時の神輿は神様は乗っていませんから、駕輿丁(かよちょう:神輿を担ぐ人たち)も平服の法被姿です。結構な旧坂の参道を人力で担ぎ上げます。そして、三宮神社・牛尾神社の拝殿にそれぞれの神輿を約1か月間安置し、比叡山中を気ままに飛び回っている男女の神が神輿に宿るのをじっと待ち続けます。この間、社殿の窓に取り付けられたランプに毎晩火が灯され、神を迎えるための物忌みの季節が始まったことを里に告げます。

 

 三宮神社・牛尾神社が成立したのは、平安時代に入ってからのこととされています。それまで神は、黄金大巖(こがねのおおいわ)と呼ばれる磐座に宿っていましたが、やがて社殿が建立され、神々はこの社殿に鎮座するようになりました。両社の間に屹立している巨厳が、黄金大巖です。

 

 元々、この巌が神様で、社殿は後で建てられました。そのため、社殿は急斜面に無理やり立てる必要があったため、本殿と拝殿が一体化し、しかも黄金大巖の高さまで拝殿の床を上げるため、長い柱を斜面にいくつも立て、建物を支える、懸け造りの社殿構造を採用しました。

 

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黄金大巖
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黄金大巖に宿る神の視線

 

 黄金大巖の前に立ち麓を見下ろすと、琵琶湖を背景に、日吉大社の鳥居が真正面に見え、坂本の古い道が八王子山に向かって放射状に延びているのが見えます。この山が坂本の、日吉大社の、比叡の中心であることが実感されます。八王子山からの景観が、近江を護る神の視線なのでしょうか。

 

 あと一月ほどで比叡の神は社殿に安置された神輿に降臨し、駕輿丁に担がれて里に迎えられます。この時の駕輿丁の装束は、神を敬う白装束です。神々の降臨と共に、命が躍動する春がやってきます。春の力よ!災厄を吹き飛ばせ!疫病を駆逐してくれ!

 

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琵琶湖の胎動

 

大瀧神社 水の神を祀る(多賀町富之尾)

  • 2020.02.09 Sunday
  • 16:50

 

 大瀧神社は、犬上川の中流の大蛇ヶ淵と呼ばれる激流の上に鎮座する神社で、祭神として高龗神(たかおかみのかみ)と闇龗神(くらおかみのかみ)をお祀りしています。この変わった名前の神様は、いずれも水を司る神で、犬上川の様々な水の姿を神格化したものと考えられます。

 

大瀧神社

 

 犬上川とは変わった名前ですが、その名は「犬」と「神」に由来します。大瀧神社にはこの犬と神を結ぶ神話が伝えられています。

 

 “昔、犬上川の上流に人に災いをなす大蛇が住んでいた。日本武尊の息子である「稲依別王(いなよりわけのおう)」は、この大蛇を退治するため、愛犬の小石丸を伴い、川の上流に分け入った。幾日も彷徨ったが大蛇は見つからない。疲れ果てた稲依別王は川岸の大木にもたれ眠ってしまった。すると小石丸が激しく吠えたてる。稲依別王はなだめるが、小石丸は狂ったように吠え続けた。怒った稲依別王は、刀を引き抜き、小石丸の首を刎ねてしまった。すると、首は大木の梢に舞い上がり、何者かと戦う気配がしたかと思うと、大蛇の首に食いつき、大蛇もろとも川に落ちて流れていった。木の上から稲依別王を襲おうとした大蛇に小石丸はいち早く気づき、危険を知らせるために吠えていたのだ。稲依別王は小石丸の首を刎ねてしまったことを悔やみ、小石丸を手厚く葬った。小石丸が大蛇に噛みついたから犬噛(いぬかみ)、或いは大蛇と小石丸が川の上流に流れていったから犬上、とされ、この川を犬上川、この川が流れる地域を犬上と呼ぶようになった。稲依別王を救った小石丸は、犬上の地の守り神として稲依別王と共に、大滝神社の傍らの犬上神社に祭られている。”

 

大瀧神社の大蛇
大滝神社の狛犬(渦巻く激流)

 

 大蛇とは水の神の化身と考えられます。この神話の裏にあるものは、犬上川(=大蛇)の開発をめぐる人と自然との葛藤の歴史が込められているのでしょう。川の恵みを得ようとする人間(=稲依別王)は、治水・利水の工事(=大蛇退治)を犬上川に対して行うが、それは決して容易なものではなかった。しかし、大きな犠牲(=小石丸の死)を払いつつも、それが完成した。この過程が神話の中に投影されているのでしょう。

 

 穏やかに流れていた犬上川が突然激流に変わり、水は、湖東流紋岩と呼ばれる白く輝く石を引き裂きながら流れ下ります。ここを大蛇ヶ淵と呼んでいます。その名前の由来はここが、勇犬小石丸が大蛇と闘い命を落とした処だからとされています。そして、この激流を見おろすように大瀧神社、そして犬上神社が鎮座しています。川の流れが大きく変化する所、特に瀧は、山上にあった神の世界の水が、人間世界の水に生まれ変わる聖地として、神仏が祀られますが、大瀧神社もその例にもれません。秋、大蛇ヶ淵を見事な紅葉が紅に染めます。

 

大蛇が淵

 

  最近、大蛇が淵の小石丸神話に因み、大瀧神社が犬を始めとするペットの守り神として注目を集めています。このお話はいずれ。

 

 自然と人間の葛藤を神として祀った大瀧神社、2020年3月25日に、大滝神社の神様に詣でるツアー「多賀の里の神様巡り」が開催されます。詳しくは東近江市観光協会<http://www.higashiomi.net/>および大津市勤労者互助会講座案内www.otsu-gojokai.jp/wp-content/uploads/rekishi2.1.pdfにアクセスを。オオヌマズもある目的を持って同行します。

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止の観点から、ツアーを中止することとなりました。

 

犬上神社

 

明智光秀ゆかりの十二相神社

  • 2020.01.30 Thursday
  • 21:29

 

 近江と伊勢を隔てる鈴鹿の山は、人と人、人と物を結ぶ交流の山並みで、ここを横断するいくつもの山道が通っていました。多賀町といなべ市とを結ぶ鞍掛峠もその一つで、山道が徐々に厳しさを増すところにあるのが佐目の集落で、この鎮守が十二相神社です。

 

佐目十二相神社

 

 佐目を流れる犬上川に架かる橋が「両宮橋」。鈴鹿の山を越えて伊勢神宮と、その親神を祀る多賀大社とを結ぶ橋であることからこの名前が付きました。佐目の立地を良く物語っています。神社に近づくと、圧倒的なパワーが上空から降り注がれるのを感じます。パワーは、本殿の周囲に巨人(神)の群れのように居並ぶ、杉の巨木達から放たれています。巨木の総数は10本前後、近江で最も迫力のある杉の巨木林です。

 

十二相神社の巨木

 

 とりわけ、本殿の前に立つ四本の杉は太く、神を護る四天王と言った趣きすら感じさせます。この四本の杉は明らかにカミの宿る「樹」と意識され、幹には独特の注連縄が飾られています。これらの杉の樹齢は600年とも1000年とも言われています。

 

 「十二相」という不思議な名前の由来は明確ではありませんが、御祭神が、奈良の吉野の川の中から出現した少名彦名命(すくなひこなのみこと)であることに由来するとも考えられます。この神は、水の世界、そして太陽の運行(十二ヶ月)を司る薬師如来と同体だからです。神社の本殿には十二の灯が点され、薄暗い巨木の森の中に実際にカミが宿っていることを事を実感させてくれます。

 

十二相神社の巨木
佐目十二相神社

 

 近年、この佐目の地が「明智光秀」の出生地かもしれない、という素敵な資料が注目されています。確かに、十二相神社の境内には光秀の時代よりも古い石造物が集積していますから、光秀がここで生まれたとしても矛盾はありません。もしかすると、光秀も十二相神社に詣でたかもしれません。

 

 神社の前には、明智光秀が暮らしたという「十兵衛屋敷」と伝えられるところがあります。明智光秀と佐目に関しては、戦国の小部屋「明智光秀多賀出身説」をご覧ください。

 

 この光秀ゆかりの伝説を伝える佐目の十兵衛屋敷を探訪するツアー「信長→光秀→秀吉→家康 戦国の覇者達 その足跡を追う」が、東近江市観光協会の企画で、2020年3月14日(土)・15日(日)の一泊二日で開催されます。詳しくは、東近江市観光協会<http://www.higashiomi.net/> にアクセスしてください。オオヌマズも参拝します。

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止の観点から、ツアーを中止することとなりました。

 

十二相神社に集積した石造物

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