織田信長のお休み処「山崎山城」(彦根市清崎町)

  • 2020.02.06 Thursday
  • 20:24

 

 県道2号線(通称「朝鮮人海道」)を安土城方面から彦根城方面に向かいます。愛知川を渡るとほぼ真っ直ぐな道となり、これを気持ちよく走っていくと目の前に丘陵が立ち塞がり、道は東に90度曲がり宇曽川を渡ると再び90度曲がって彦根城方面に向かいます。

 

 県道の通行を阻害しているように、見ようによっては県道を護るように立つ丘。この丘の上に造られたのが山崎山城です。

 

山崎山城遠望

 

  城主は、六角氏の家臣で、永禄11年(1568)に織田信長が近江に侵攻した際に信長に降りその家臣となった、山崎氏とされています。築城の年代は定かではありませんが、信長が安土城下町振興のために整備した下街道との関係が指摘されています。山崎山城は信長にとっての近江の北の要である佐和山城と、天下布武の拠点として整備した安土城とのほぼ中間地点にあり、足下を下街道(後の朝鮮人海道、現在の県道2号線)が通っています。

 

山崎山城より佐和山城を望む

 

 恐らく山崎山城は、東国から安土城下町に至る下街道の管理と警備を担う城として、整備されたと考えられます。また、重要な機能として、下街道を行く信長の休息場所(御茶屋)として使われることも念頭に置いていたと考えられます。

 

 山崎山城の発掘調査の結果、丘陵の尾根上に配された石垣で固められた郭が見つかりました。中でも最高所の郭には、石垣で固められたと考えられる穴蔵状の遺構があり、この上に櫓が乗っていたと推定されます。安土城の天主も穴蔵の上に建っていますから、規模は全く違うものの、同じような構造思想の建物があったようです。石垣で固める先進的な構造を持つその一方、主郭に至る尾根筋には堀が刻まれる等、所謂、土づくりの山城の姿も併せ持っていることもわかりました。新旧の築城技術が混在している事が、この城が戦闘とした緊迫した状況を想定するよりむしろ、戦闘は二の次で、関所的な役割を念頭に築城されていることを想像させます。

 

山崎山城より安土城を望む

 

 石垣で固められた山崎山城は、信長の段階に造られたと考えるのが自然ですが、これを継いだ秀吉の段階に再整備されたのが現在の姿である、という考えも提示されています。最終段階の山崎山城が、誰の手により整備されたのかは明らかではありませんが、この城の骨格が、信長の命により整備されたであろうことは、間違いないと考えられます。

 

山崎山城の石垣

  

 山崎山城から南を見ると、安土城があった安土山が今も眼前に横たわっているのが見えます。また、振り返り、北を見れば彦根城、そしてその背後に佐和山城があった佐和山の独特の山容が目に入ります。この景観が山崎山城の持つ意味を雄弁に物語ってくれます。

 

 この信長のお休み処「山崎山城」を探訪するツアー「信長→光秀→秀吉→家康 戦国の覇者達 その足跡を追う」が、東近江市観光協会の企画で、2020年3月14日(土)・15日(日)の一泊二日で開催されます。詳しくは東近江市観光協会<http://www.higashiomi.net/> にアクセスしてください。オオヌマズも山上からの景色を楽しみたいと思っています。

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止の観点から、ツアーを中止することとなりました。

 

 

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