明智光秀の湖上焼討ち 1 海津

  • 2020.02.19 Wednesday
  • 20:53

 

 

 元亀3年(1572)7月、織田信長は湖北の浅井長政を孤立させるため、湖北一円に大規模な焼討ちを仕掛けます。そして、これと連動し明智光秀等に、湖岸を湖上からの焼討ちすることを命じます。この作戦は周到に準備されていたようで、同年5月に早くも沖島に命じ攻撃に参加する船を徴用しています。

 

 光秀は沖島、堅田の船を集めこれを囲船(かこいぶね)という戦艦に改造した戦隊を率い湖北に向けて出港します。その最初の攻撃目標は高島市マキノの海津です。

 

  海津は日本海と琵琶湖の結節点として中世に入り発展した港町で、焼討ちの時点では長政の勢力下にありました。また、堅田を支配していた海津衆と呼ばれる地侍達は、浅井氏に対して軍馬を供給したり、姻戚関係を結んだりした、浅井氏を支える武家達でもありました。焼討ちの目的は明確です。長政の経済基盤である海津の港を攻撃し、さらに長政に与する海津衆も攻撃することにより、長政を弱体化・孤立化させることです。

 

01掲載 城壁を思わせる海津の石垣.jpg
城壁を思わせる海津の石垣

 

 しかし、この作戦がどの程度海津にダメージを与えたのかは疑問です。この時代。海津の港は海津の町の背後に広がる「内湖」が使われ、琵琶湖の湖岸には攻撃の対象となる船は係留されていなかったと考えられるからです。琵琶湖の船の特徴は、どんな浅いところにでも入って行けるように、船底を平らに造るところにあります。波の荒い琵琶湖の湖岸に船を係留するリスクを避けるため、波静かな、クリークや内湖などの水深の浅いところを港として使う選択をした結果です。海津の内湖と琵琶湖とは狭く浅い水路で結ばれていました。内湖の船を攻撃するため、この水路に入り込んだら海津衆の反撃を受けることは必定です。

 

 では、光秀はどのようにして海津を攻撃したのでしょうか。光秀は「火矢・鉄砲・大筒」で攻めたと記録されています。当時の火縄銃の有効射程はせいぜい30m前後。弓にしても同じようなものです。大筒(大砲)はもう少し飛んだかも知れませんが、不安定な船上からの砲撃に命中精度は期待できません。湖上からの焼討ちは海津に対して、直接的なダメージを与えることは難しかったと想われます。

 

02掲載 船の出入り口(中の井川の河口).jpg
船の出入り口(中の井川の河口)
03掲載 琵琶湖と内湖を結ぶ中野井川 .jpg
琵琶湖と内湖を結ぶ中野井川
04掲載 港として使われた海津の内湖.jpg
港として使われた海津の内湖

 

 しかし、湖上から放たれる轟音、恐らく陣鐘・陣太鼓も響き渡ったはずです。海津は琵琶湖と共に歩んできた町です。言わば自分達を守る琵琶湖の辰住まう琵琶湖から、悪鬼のような光秀の船団が轟音と共に攻め込んでくる。海津の人達は底知れぬ恐怖に襲われると同時に、織田信長という新たな時代の支配者の登場を実感したのではないでしょうか。 海津に焼討ちを仕掛けた光秀の軍団は、葛籠尾崎を目指し陣鐘・陣太鼓の音共に、悠々と遠ざかって行きます。次の目標は塩津。

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