明智光秀と湖上焼討ち 2 塩津

  • 2020.02.26 Wednesday
  • 17:58

 

 元亀3年(1572)、織田信長の命により明智光秀は、湖北に対する湖上焼討ちを敢行します。最初の攻撃目標の海津への焼討ちは『明智光秀の湖上焼討ち1海津(戦国の小部屋) http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=23』で紹介しました。今回はその続編です。

 

  悠々と海津を去った光秀の船団は、葛籠尾崎を目指し、ここから塩津湾の奥にある塩津の港を目指して舵を切ります。余談ですが、葛籠尾崎の湖底が『イサザと葛籠尾崎湖底遺跡(食の小部屋) http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=12の舞台です。

 

 塩津は、日本海に最も近い港として大いに繁栄しました。その起源は恐らく、古墳時代にまで遡るのではないかと考えられています。近年に行われた発掘調査では、現在の塩津港の下、1.5m程の所から平安時代の港が見つかり、注目を集めました。この平安時代の港は、元暦2年(1185)に発生した大地震に伴う津波に襲われ壊滅しました。この地震により琵琶湖の水位が大きく変化し、塩津の港を琵琶湖が飲み込んでしまったのです。琵琶湖にも津波が起きたのです。用心用心。

 

01塩津を護る塩津神社.JPG
塩津を護る塩津神社
02現在の塩津.JPG
現在の塩津

  

 光秀が焼討ちを仕掛けた塩津港は、現在よりも約700mほど北、現在の道の駅「あぢがまの里」付近にあり、それが徐々に琵琶湖が埋まり、現在の位置に落ち着いたのだと考えられています。

 

 塩津に対する焼討ちの目的は、長政の経済基盤の一つである塩津港を攻撃することにより、長政の力を削ぐことにあったことは、言うまでもありません。そして、海津の港への攻撃と同様、湖上からの港に対する攻撃は、湖を生業とする船人にとって、想像以上の精神的ダメージを与えることになった、と想像されます。狭い塩津湾の南から、陣鐘・陣太鼓・そして空砲も加わったかも知れません、雷鳴のような轟音と共に、見たこともない形の船が船団を組んで近づいてくる。「我々を護り、そして暮らしを支える湖水から悪鬼が攻めてきた。その手先が信長か!光秀か!」。「もう親方様(浅井長政)はだめだ。我等を護ってはくださらぬ。時代の流れに身を任せよう。」

 

03者ども!あれが塩津だ!.JPG
者ども!あれが塩津だ!
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湖から悪鬼が攻めてくる

 

 塩津港の立地は、集落の背後の内湖を利用した海津とは違い、塩津大川のデルタを利用していたと考えられます。光秀の軍勢は塩津に上陸し、陸路余呉湖に向かっていますから、軍事的な反撃もなかったようです。海津衆のような軍事力を持った勢力は塩津にはなかったのでしょう。塩津を去るを去る光秀船団が、塩津の船を戦利品として略奪したことも十分に想像できます。

 

 次の焼き討ちの目的地は何と、余呉湖。

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