浅井の娘3 竹生島2

  • 2020.07.05 Sunday
  • 17:22

 

 前回、竹生島の都久夫須麻神社本殿の建物についてご紹介しました。今回は、修復の終わった宝厳寺唐門・観音堂と渡廊について紹介します。

 

 現在の竹生島は、弁才天と千手観音を祀る宝厳寺と、市杵嶋姫他の神々を祀る都久夫須麻神社とに分かれていますが、これは明治維新以降の姿で、江戸時代までは長く、弁才天を祀る「竹生島弁才天社」と観音菩薩を祀る「宝厳寺」が並立し、現在の都久夫須麻神社本殿に竹生島弁才天が祀られていました。

 

 ところが、明治政府は、神社に仏教の尊格が祀られていることを容認することができず、これを厳格に分けるよう厳命し、竹生島は、これに泣く泣く従い、弁才天を一時観音堂に遷し、後に現在の弁才天堂が建立され、弁天様はここにやっと、安住の地を得ました。

 

 宝厳寺唐門は本来、宝厳寺の観音様にお参りし、その後、弁才天にお参りする竹生島信仰を象徴する建物として、慶長七年(1602)に徳川家康の画策により豊臣秀頼、淀殿(浅井の娘茶々)により移築されたとされています。この建物は本来秀吉の大阪城に建立された極楽橋の正面部分を移築したことが判明しました。(前回の記事を参照してください)

 

01宝厳寺唐門.JPG
宝厳寺唐門
02唐門の正面IMG_0081.JPG
唐門の正面

 

 この唐門ですが、建物の高さが低く感じられ、元あった建物を移築するに際して改造したものと考えられています。この建物の最も大きな特徴は絢爛豪華な彩色を施した彫刻群でしょう。特に正面の大きな蟇股(かえるまた)とその左右に配された金鶏(きんけい:王者を象徴する雉の一種で、剣のように尖った尾羽が特徴)は実に見事です。まさに、秀吉の大阪城を飾るにふさわしい彫刻です。ただ、金鶏の下に遊ぶ3匹の「波乗り兎」が気になります。兎もめでたい動物なのですが、大阪城になくても・・・。この波乗り兎のモチーフは、『謡曲竹生島』の「兎も波に遊ぶか、面白の景色・・」から派生したとされています。実に竹生島を飾るにふさわしいモチーフで、出来すぎです。移築に際して、何者かが付け加えを指示したのではないでしょうか。誰が?淀殿では?

 

03修復前.JPG
修復前
04修復後.JPG
獅子阿形修復後
05獅子阿形修復前」.JPG
獅子阿形修復前
06獅子阿形修復後.JPG
獅子阿形修復
07獅子吽形修復前.JPG
獅子吽形修復前
08獅子吽形修復後.JPG
獅子吽形修復後

 

 観音堂ですが、唐門、都久夫須麻神社本殿と同じ基調の装飾が施され、同じく大阪城極楽橋関係の建物が移築されたとするのが妥当のようです。そもそも、御本尊を安置する間が建物正面にありません。この事も、観音堂が祭祀を目的とした建物ではなかったことを示しています。

 

09修復された観音堂の天井.JPG
修復された観音堂の天井

 

 そして渡廊です。大阪城の古図では屋根が、唐破風のアーチをそのまま伸ばした形状で描かれていますが、渡廊の屋根は直線を合わせた切妻屋根で、極楽橋を移築したとするには矛盾があります。しかし、観音堂に接続する部分、都久夫須麻神社本殿に接続する部分を見ると黒漆が塗られた唐破風型の妻となっています。どうやら、楼の本体を切妻屋根に替える省略が行われたようです。

 

10渡廊の先端の唐破風.JPG
渡廊の先端の唐破風

 

 これらの絢爛豪華な建物群の移築を主導したのは、徳川家康です。しかし、これらの建物群を竹生島に移築することを同意し、積極的にこれを勧めたのは「淀殿」ではなかったかと考えています。その理由は、彼女が「浅井の娘」だったからです。

 

何故浅井の娘だから竹生島を豪華にしたのか? その理由は次回へ

 

 

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