明智光秀竹生島を焼く

  • 2020.07.19 Sunday
  • 15:16

 

 元亀三年(1572)、明智光秀は沖島・堅田・高島の船侍達を率いて、高島から湖北一帯を湖上から焼き討ちします。(http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=23http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=24)今回はその続編。

 

 塩津に上陸し、余呉湖方面を焼打ちした光秀船団は琵琶湖を南下し、竹生島に攻撃を仕掛けます。竹生島は、船運という経済の拠点でも、水軍としての軍事拠点でもありません。何故光秀(織田信長)は竹生島を攻撃しなければならなかったのでしょうか。

 

01塩津湾から竹生島を見る.JPG
塩津湾から竹生島を見る

 

 竹生島は、竹生島弁才天の島ですが、その深層には浅井郡、そして浅井氏の守り神である浅井姫の聖地、という意味合いがあります。長政の父である久政は竹生島蓮華会の頭屋を務め、その際に奉納された弁才天像が今も竹生島には伝来しています。

 

 神仏が機能していた時代、武家の権威を保証するのも、武家の武運を保証するのも皆神仏達でした。とりわけ、竹生島弁才天(=浅井姫)は、浅井氏にとって非常に大きな意味を持っていました。浅井氏が郡名(浅井郡)の名前を冠し、浅井岳(小谷山)に城を構え、湖北に君臨できたのも、全て浅井姫の後ろ盾があった(後ろ盾があるように演出した)事によります。浅井姫の加護を失うことは、浅井氏の亡びを意味していたといっても過言ではないかもしれません。

 

02竹生島の浅井姫から小谷城はよく見える.JPG
竹生島の浅井姫から小谷城はよく見える
03小谷城から竹生島がよく見える.JPG
小谷城から竹生島がよく見える

 

 湖上攻撃が行われた元亀三年七月は、徐々に長政が小谷城に追いつめられる状況にありました。おまけに、湖上攻撃の直前には、羽柴秀吉らによる湖北一円への焼き打ちも敢行されています。小谷城に閉じ込められた長政は焦りの度合いを高めつつありました。その最中、竹生島が攻撃されたのです。小谷城から竹生島がよく見えます。光秀の軍勢に攻撃され煙を上げる竹生島の姿が、長政、そして浅井家臣団の眼に焼き付いたはずです。

 

 光秀軍団を調伏する浅井姫の神威も見えないまま、竹生島が燃える。「姫様が燃える、俺の後ろ盾が・・・(長政)」「浅井姫様が燃えている、殿は姫様に見放されたのか?もはや殿には我らを、浅井の地を護る力はないのか・・生き延びるためには、殿に見切りをつけ、信長に随ったほうが得策か・・(長政家臣団)」

 

 こんな心理的な効果が、焼き打ちによって生じることを信長(光秀)は計算していたのではないでしょうか。事実、一年後、竹生島に一番近い山本山上の城主「阿閉貞征」の信長への寝返りをきっかけとして、浅井軍団は崩壊し、信長の軍門に降ることになります。

 

04竹生島を去る軍団.JPG
竹生島を去る軍団

 

 信長は、竹生島を蔑にしていたのでしょうか?そんなことはありません。天正九年(1581)、信長は自ら竹生島に赴き、竹生島弁才天を迎え、これを安土城に安置しています。信長は、竹生島弁才天は、琵琶湖をつかさどる神として位置づけ、この加護を受けることが近江支配の必須条件と考えていたのでしょう。信長にとって竹生島弁才天と浅井姫は別の神なのです。浅井姫は長政の守り神だから攻撃してもかまわない。しかし竹生島弁才天は儂の守り神だから崇敬する。こんな、解りやすい心象が信長に働いたのでしょう。信長が迎えた弁才天は、長く宛寺に祀られていたようです。

 

 

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