石山寺の安産の腰掛石と子育観音  大津市石山寺町

  • 2020.06.18 Thursday
  • 18:00

 

 前に、石山寺の硅灰石のお話をしました。今回はその続編。

 

 石山寺本堂から、三十八所権現社に向かいます。この社、形式的には一間社流造のよく見られるタイプですが、中に三十八柱もの神様をお祀りしているので、一間の間口がとても広い特殊な構造を持っています。また、前回紹介したように、この社も硅灰石の上に直接建てられています。

 

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三十八所権現者本殿

 

 この社の上手にある建物が、石山寺経蔵で、石山寺一切経や校倉聖経(あぜくらしょうぎょう)等の典籍が収納されていました。経蔵の構造は、桁行三間、梁間二間の校倉造りで、硅灰石が露出している岩盤上に礎石を置いて束柱を立てていますが、一部は硅灰石に直接柱を建てています。

 

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石山寺経蔵

 

 経蔵の床下を覗き込むと、不思議なものが目に入ります。硅灰石の凹みに座布団が敷かれているのです。看板によれば「安産の腰掛石」。妊婦さんがこの座布団に座ると、安産に恵まれるのだそうです。傍らの束柱には腹帯らしきものもまかれています。時々座布団が変えられていますので、今でも信仰する方がいらっしゃるようです。

 

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石山寺経蔵
04腰掛石.JPG
腰掛石
05腰掛石.JPG
腰掛石

 

 ここから、多宝塔のある台地に登り、本堂の裏手に下ります。本堂の西に沿ってさらに降ると右手に「子育観音」の案内が。お堂があるのかと思い、硅灰石の崖に沿った小径を進むと、黄金の天蓋があり、その下に聖観音と思しき石仏が安置されています。何故ここに、子育観音様が?その理由は、観音様を正面から拝むと納得できます。

 

 観音様の背後の硅灰石の折り重なりが、巨大な割れ目を造っているのです。そしてこの前に観音様が安置され、その名は「子育観音」。まさに大地の割れ目から命が生まれる。そんな、解りやすい感性が、この観音様をここに迎えたのでしょう。そう考えると、経蔵の下の腰掛石と、この観音様はセットのように思えます。

 

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子育観音
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子育観音

 

 大地は様々な命を生み出す。そのため、多くの民族は大地を「母」とみなしてきました。まさに「母なる大地:地母神」です。といっても大地は広い。そのなかでも、母性が強く宿ると感じられたところに、その気配をカミとして祀りました。山に対する信仰がその典型でしょう。しかし山も大きい。山の中でも巨岩の露出、巨木の屹立が母性の依り代として、さらに凝縮された信仰の対象となり、その中に母性を感じさせる自然造詣があれば、ピンポイントの聖地となります。この文脈からすれば、腰掛石の凹みは“大地の気(命の源)が女性の胎内に入る聖地”、子育観音の巨岩の割れ目は“大地から命が生まれ出る聖地”として理解できそうです。

 

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子育観音

 

 女性の守り神である如意輪観音を本尊とする石山寺の境内に、母性を象徴する聖地が点在する、いや、石山寺に詣でた多くの女性たちの願いが、これらの聖地を生み出した、と言えるのではないでしょうか。

 

*子育て観音への小径は足場が悪く、状況により閉鎖されていることがありますので、 お寺の指示に従って参拝してください。

 

 

 

 

 

石山寺の硅灰石 大津市石山寺町 日本のカミに取り込まれた観音様

  • 2020.06.14 Sunday
  • 11:19

 

 琵琶湖が瀬田川に名前を変えて流れ下る右岸、伽藍山の中腹に展開する寺院が石山寺です。紫式部が源氏物語を執筆した処、西国十三番観音霊場、源頼朝の信仰、松尾芭蕉の俳句、近江八景「石山秋月」等々、魅力的な歴史文化遺産の宝庫で、一日居ても飽きないお寺です。

 

 さて、石山寺の縁起は“昔、聖武天皇は紫香楽に大仏を造りたかったけれど、叶わず、致し方なく奈良に戻り、ここに大仏の建立を始めた。大仏も姿を見せ始めたが困った。お経典には大仏の躰は黄金に輝いている、と規定されている。大仏に塗る(=金メッキ)ために大量の金が要る。しかし、今、日本に金の産地はない。そこで聖武天皇は、大仏建立のディレクターの良弁僧正をを呼び出し、「なんとかせい」と告げた。そこで良弁はまず、吉野の金峰山に赴き、「金(きん)が欲しい」と祈ると、蔵王権現が夢に現れ「確かにここには黄金が大量にある。しかしこの黄金は、四十六億年後、弥勒菩薩が如来となり来現し、末法の世に終止符を打つ際に、その宮殿を荘厳するための黄金だから、お前にはやれん。しかし、近江の国の湖水の南岸に、観音垂迹の霊地があるから、そこで祈っていればいいことがある」と告げた。そこで良弁は故郷の近江に向かい、瀬田川の岸に至ると、そこで一人の老翁が釣り糸を垂れていた。良弁は老翁に事の次第を告げると、翁は山上の巨岩の元に良弁を案内し「ここで祈れ」と告げると、かき消すように消えてしまった。この翁は近江の地主神である「比良明神」であった。良弁は、聖徳太子から聖武天皇が受け継いだ如意輪観音の像を岩に安置し祈った。祈り続ける良弁の元に朗報が届いた。「陸奥の国から大量の金が献上された」喜んだ良弁は、如意輪観音と共に奈良に帰ろうとしたが、観音は岩にくっついてどうしても離れない。困った良弁は岩に着いた観音をそのまま堂で覆い、寺とした。これが石山寺である。”

 

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比良明神釣垂岩

 

 石山寺の大門から長い参道を歩き、料金所を過ぎたところに、この時、比良明神が腰を掛けて釣りをしていたという霊石が祀られています。そしてその向かいには、目を見張るような光景が広がっています。渦巻くように屈曲を重ねる奇岩の群れです。この岩は、石山寺境内のほぼ全域に広がっており、「石山寺の硅灰石」として天然記念物に指定されています。硅灰石(珪灰石)とは、大昔の海洋生物の遺骸が岩となった「石灰岩」が、地球の火山活動により生じたマグマの熱を受けて変性(成分や構造が変化して別種の岩石になること)した岩石で、元の石灰岩の純度が高いと「大理石」に、泥などの不純物が多く含まれていると「硅灰石」になるとのことです。厳密に言えば、石山寺の硅灰石の中には大理石も混じっているようです。地質学的な話はともあれ、本堂と多宝塔の間に屹立する硅灰石の群れは息をのむような光景です。

 

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石山寺硅灰石
03硅灰石と多宝塔.JPG
硅灰石と多宝塔

 

 石山寺の本尊は、何度か火災に逢い平安時代に復興された丈六の如意輪観音で、宮殿(くうでん)と呼ばれる巨大な厨子の中に、硅灰石の上に座して安置されています。通常、仏像は動産ですから、自由に移動させることができます。そのため、建築条件の良いところに堂を建立してこの中に仏像としての仏を安置します。ところが、石山寺の観音様は硅灰石から離れなくなってしまいました。このため、観音様を移動させることができないので、硅灰石ごと堂で覆うことになったわけです。

 

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石山寺本堂

 

 通常の寺院は、仏様と参拝者の都合により伽藍が決められますが、石山寺は、観音様の都合に合わせて伽藍配置が決められました。その結果、観音様を拝する人は、硅灰石の崖の途中から拝まなければならない、という不都合が生じました。どうする?参拝者を観音様の高さまで持ち上げれば良い。この結果、硅灰石の崖に沢山の柱を立てて、観音様の高さに合わせて床を張り舞台状にした、懸造りの礼堂を造り、これを本堂に合体させた、石山寺独特の建物が生まれました。因みに、観音様が座す本堂は平安時代、礼堂は淀君の寄進による中世の建物です。

 

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懸造りの礼堂
06懸造りの柱.JPG
懸造りの柱

 

 何故、このような膨大な労力と資材を投入して、堂を建立しなければいけないのか?それは、岩から離れなくなった観音様を祀るため、言い換えれば岩に取り込まれ一体化した観音様、さらに言い換えれば、岩と同化した観音様を祀るためです。つまり硅灰石の露頭は日本の自然に宿るカミの宿る磐座で、仏は日本の神につかまり、日本の神と同化してしまったわけです。ですから、石山寺の本尊如意輪観音は、極論すれば「硅灰石に宿るカミ」ということになります。そう思って、石山寺の堂舎を拝すると、多くが礎石を用いず、硅灰石に直接建てられています。これらの建築の様態も、岩に宿るカミへの信仰が反映されているのでしょう。

 

07硅灰石に建つ龍蔵権現社.JPG
硅灰石に建つ龍蔵権現社
08硅灰石に建つ三十八所権現社.JPG
硅灰石に建つ三十八所権現社

園城寺(三井寺)の閼伽井 大津市三井寺町

  • 2020.06.10 Wednesday
  • 21:26

 

 前に長命寺の閼伽井のお話をしました(http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=56)。今回はその続編、園城寺の閼伽井のお話をしたいと思います。

 

 園城寺の別名が「三井寺」。一般的にはこの名前の方が親しみがあるのではないでしょうか。近江八景でも「三井の晩鐘」ですし、駅名も町名も「三井寺」です。この名前の由来は、天智・天武・持統という古代の三人の天皇の産湯に使った霊泉が境内から湧き出ていることに由来する、と語られています。真偽のほどはともあれ、この霊泉は今も園城寺境内から湧き出ており、これを閼伽井と呼び、これを覆う堂を閼伽井屋と呼んでいます。

 

01園城寺本堂と閼伽井屋(画面左の屋根).JPG
園城寺本堂と閼伽井屋(画面左の屋根)

 

 閼伽井屋の中を覗いてみましょう。すると、左奥の石組みの中から「ぼこっ・ボコッ」と音を立てながら、水が湧き出ています。白洲正子は『西国巡礼』の中で、「金堂の裏手に三井の名の起こりである霊泉があった。・・・・しめ縄をはった岩の間から清水が流れており、それが一定の間をおいて、奈落の底からひびいて来るような音を立てて湧きあがる。千年も、いや何千年も前から、この泉はあきもせず、不気味な独言をいいつづけてきたのだろう。」と紹介しています。

 

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閼伽井(左隅が湧水地点)

 

 文禄四年(1595)、豊臣秀吉は園城寺に対して、突然「闕所令」を出します。園城寺の伽藍を地上から抹消せよ!という命令です。時の権力者には逆らえず、この時、園城寺の伽藍は、命令通り地上から姿を消しました。しかし、秀吉はその死の直前に闕所令を解除し、死後、園城寺の復興は、豊臣氏、徳川氏などの助力により急速に進み、現在の寺観が整いました。この復興の際に、本堂と共に閼伽井屋も新築されました。

 

 園城寺本堂は、秀吉の正室である北政所の寄進により建立された、典型的な密教寺院本堂で、約二十三m四方もある巨堂で、この中に、三寸二分(9.7センチ)の弥勒仏が、絶対秘仏として祀られています。因みにこの仏は、中国の南嶽大師慧思(聖徳太子の前身)が修行中に降臨した弥勒仏を、自らの分身として残した仏で、用明天皇が百済より得て、天智天皇に伝え、天智天皇の念持仏として崇福寺に納められていた霊仏であると、伝えられています。

 

 この巨大な本堂に閼伽井屋は寄り添うように建てられています。しかし、よく見ると違和感のある建物配置です。というのは、本堂の屋根の一部が閼伽井屋の屋根に重なっているのです。このため、本堂の雨落ち水が、直接閼伽井屋の屋根に落ちてきます。檜皮葺の屋根ですから、この部分が痛むのは歴然です。何故、園城寺はこのような不可思議な建物を建てたのでしょうか?

 

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閼伽井屋の蟇股(伝左甚五郎作)
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閼伽井屋と本堂との関係

 

 この理由は、園城寺が三井寺(御井寺)であると考えれば理解できます。つまり、園城寺の本体は、この閼伽井だからです。閼伽井は不動産ですから動かしようがありません。本堂も不動産ではありますが、再建の際にもう少し東にずらして建てることは、十分可能だったはずです。しかし、それをしなかった。あえて、本堂の屋根で閼伽井屋を覆いたかった。と考えれば理解できます。

 

05本堂の屋根が閼伽井屋に懸かっている.JPG
本堂の屋根が閼伽井屋に懸かっている
06閼伽井屋の軒裏と本堂の軒裏.JPG
閼伽井屋の軒裏と本堂の軒裏

 

 園城寺の本尊と閼伽井屋には、こんな物語が隠されているように思えます。

 

  「人が暮し始めるはるか以前から、長等山の麓から清浄な水が湧き出ていた。人がこの地に至りこの湧水を見たとき、人はここにカミを感じて湧水を祀り始めた。やがて仏教が伝来し、大津宮が置かれ、壬申の乱が勃発し、その後、この地に天智天皇、大友皇子の御霊を祀る寺院が建立され、天智天皇の念持仏であった弥勒仏が本尊として祀られた。後に、智証大師が寺を再興し、園城寺は大発展を遂げた。その過程で、本来の主の湧水は、雄弁な仏の陰に隠れてしまった。しかし、園城寺の僧は、本能的に、弥勒物と湧水との関係を感じ取っており、本堂の屋根で閼伽井屋を覆うことにより、湧水のカミと弥勒仏とが同格(一体)の神であることを表現しようとした。」

 

 巨大な園城寺の伽藍を構成する歴史と文化を一枚一枚剥ぎ取ってゆくと、最後には、近江に宿る自然の神との邂逅が待っているのです。

 

 白洲正子は、この閼伽井を拝し「その時、私は、・・この寺の「黄不動」の像を、思い浮かべた。それは展観というより、ご開帳という気分だったが、香の煙の中に浮かんだあの不動の姿は忘れられない。・・力強く、画面いっぱいに立った姿からは不思議な妖気が迫って来た。その不動と泉が似ているといったらおかしいが、それと同じものを私は、たしかにこの音の中に聞いた。」と、語っています。白洲正子も、水に宿るの神としての不動明王を感じ取ったのです。瀧に不動明王を感じる感性と同じです。

 

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閼伽井

鮎とステータス

  • 2020.06.06 Saturday
  • 21:45

 

 前に瀬田川で漁獲された活け鮎が、京都で、法外な値段で供されていた話を紹介しました。何故、鮎? 鯛でも本鮪でもなく鮎です。どうも、京都人にとって、初夏に鮎を食べることは(ただし、家ではなく料亭で)、一種のステータスのようです。では、何故、鮎を食することがステータスなのでしょうか。

 

 秋道智彌さんの御著書『アユと日本人』の中で、興味深い資料を紹介されています。明治時代初期にかかれた飛騨地方(岐阜県)の地誌『斐太後風土記(ひだのちのふどき)』です。ここに記載された鮎の分布から、鮎は河川の一定以上の上流には分布しないことを示したうえで「されど豊年ならでは、上白川までは上らず・・・」「宮川(高山市)へ年魚(あゆ)の登ることは、年によって多少あり、豊年の年には最数多登て、俗に豊年魚と云ふ。高山町の橋々より上までも登ることあれど、其れは稀なることにて・・」と紹介されています。

 

 つまり、鮎は稲作の豊凶と関わりのある魚とされ、豊年の年はより上流まで遡上する、と意識されていたようです。山間で冷涼な飛騨において、豊年の年とは、気候が安定し、比較的高温の夏(今では信じられませんが)と考えられます。つまり、河川の水温が高くなれば、鮎はより上流へ遡上することを示しています。さらに「高山町の橋々・・」の記載ですが、観光客で賑わう宮川の橋の上から川底を見ると、沢山の鮎が川底の岩の珪藻を食んでいるのが、夏なら普通に見られます。どうも明治時代より現在の方が、様々な環境要因により、鮎は分布を広げているようです。

 

 ただし、水温が高ければ鮎が上流まで登るというわけではありません。鮎の分布が広がる大きな要因に「沿岸の水田開発による水の汚染」が考えられます。「水清ければ魚住まず」という格言があります。魚が機嫌よく泳ぐ水は、清浄な水、というイメージがありますが、近年の大阪湾、瀬戸内海の不漁は下水道の整備等により、海水がきれいになりすぎたことが原因の一つとされています。

 

 鮎も同じ事、鮎の餌は川底の石に付着する珪藻類です。珪藻たちは水中に含まれる養分と太陽の光を糧に育ちます。水中に養分がないと、珪藻は育たない=鮎は棲めない。「養分」と言うと上品に聞こえますが、要は「汚れ」「汚染」です。つまり、川がある程度汚染されないと、鮎は暮らせないのです。その河川汚染の最大の原因(現在ではありません)は、沿岸の水田開発による、水田排水の流入だったと考えられます。田んぼの汚れが鮎を呼び寄せる(現在の水田排水による汚染と、古代〜近世にかけての河川汚染とは質も、レベルも違います)。程よい汚染は、生き物を活性化させる。水田の開発が上流に向かえば、アユの遡上する範囲も広がる。つまり「豊年魚」のイメージです。

 

01鮎の生息する川.JPG
鮎の生息する川

 

 神武天皇が奈良盆地に侵入しようとして失敗。この時、東征の首尾を、甕を川に沈めて魚が浮くか否かで占います。結果、見事に魚が浮きました。この様子が昭和天皇の即位の際の「万歳旗」に描かれていますが、魚は鮎のようです。支配する土地の象徴が「鮎」です。また、神功皇后が朝鮮半島に遠征する際にも魚釣りで占いをします。結果、コメの餌に鮎が食いつき、成就。ここでも領土の確保と鮎が結び付けられています。

 

 鮎は、領地=耕作可能な土地を象徴する魚のようです。何故?水田開発の広がりと共に鮎は生息域を広げます。鮎が遡上する時期は、田植えから稲の生長期。鮎と稲は共に育ちます。そして、収穫の季節、鮎は川を去り海に戻ります。そして次の年、鮎はまたやって来ます。この生態を見た昔の人は「鮎がはるか海上の他界(神様の世界)より、稲魂を運んで来る」と感じたのではないでしょうか。ここから鮎と水田開発=領土が結び付き、「豊年魚」のイメージも形成されたのだと思います。

 

 稲魂を運ぶ使者と、稔の米を合体させようという心象が当然生まれます。これが「鮎のなれずし」です。鮎を素材とした「鮒ずし」のような食品で、なれずしとしては「鮒ずし」はむしろ異端で、全国的には「鮎のなれずし」のほうが圧倒的に広く分布しています。(鮒ずしの話はいずれ、しつこくさせていただきます)

 

 夏の風物誌に長良川の鵜飼いがあります。鵜を操る「鵜匠」は、古くは織田信長、その後は徳川将軍家、明治に入り有栖川家に属し、そして現在は、皇室に鮎を納める宮内庁職員です。そして、鵜が捕った鮎は「なれずし」に加工して献上されました。何故、鵜匠が鮎を取り献上する特権を得たのか?その底辺には、「為政者は自然をも支配する」という概念があります。野生の動物である鵜と心を通わせ、大地の象徴である「鮎」を取り、これを大地の恵みと合わせて「なれずし」にして食べる。まさに、自然の祝福を受けた支配者の力を具体的に、視覚化・味覚化する行為です。

 

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長良川
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出番を待つ鵜
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鵜匠の特権を示す有栖川家の鑑札
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鮎のすし加工場に掲げられた看板
「不浄の者立ち入り禁止」

 

 鮎は土地の開発・豊穣をつかさどる魚であり、土地の支配者(天皇を頂点として、小は社長さん・戸主まで、ピラミッド状に対象は広がります)が、身に取り込む、地のスピリッツの籠った魚で、食べることにより「地」を支配することを示します。このため、鮎の季節には何としてでも、鮎を食そうとする文化が生まれたのだと思います。それも、宴席という、本来は、神様と交歓する祭事の場の料理として。

 

06鮎のすしを入れて献上した桶.JPG
鮎のすしを入れて献上した桶

 

 となると、値段は問題ではありません。むしろ高いほうが神様との交流が深まる、という自己満足がうまれ、それに乗じて、自尊心をくすぐるように鮎を供する。これが初夏の鮎の秘密ではないでしょうか。正統なような、歪んでいるような。

 

 6月17日、鮎談義と共に、虚心に鮎を味わいたいものです。初夏の地酒と共に。

  お問い合わせ、東近江市五箇荘「納屋孫」 筍娃沓苅検檻苅検檻横僑械

 

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鵜匠の鮎のなれずし
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鮎のなれずし(近江では一般的ではない。
近年造られるようになった)
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宴席に供された鮎のなれずし(近江では一般的
でない・鮒ずしより安い)
10小鮎のなれずし(新作なれずし:定着するか否か).JPG
小鮎のなれずし
(新作なれずし:定着するか否か)

 

 

明智光秀、鱧を饗する 安土饗応膳と鱧

  • 2020.06.05 Friday
  • 17:51

 

 天正10年(1582)、織田信長は甲斐の武田勝頼を倒し、天下布武への道を大きく前進させます。この時、勝頼の遺領分配で厚遇された徳川家康と穴山梅雪は、信長に対する御礼のため、連れ立って安土城を訪問しました。この時の接待役を命じられたのが、明智光秀です。(←2020・03・02アップ「明智光秀と安土城の宴」と同文 http://omi-rekishi.jugem.jp/?eid=28)

 

 さて、この時に光秀がプロデュースした、もてなしの料理メニューの一部が記録として残されています。「天正十年安土御献立」という史料で、5月15日から17日までの3日間で供された9回ほどの接待料理の内、5回分、130種類余りの料理が記載されています。全部が残っていれば、200種を優に超える料理が供されたことになります。この中に御飯類を除き、ダブりは殆どありません。光秀が全てを差配したとしたら、光秀は料理に対する造詣が極めて高かったことになります。(←2020・03・02アップ「明智光秀と安土城の宴」と同文)

 

 これらの料理群には幾つかの特徴がありますが、その一つとして、初めの料理には、海産物の生鮮食品が多いけれども、あとの料理になるほど減って行く傾向があります。考えてみれば当然です。旧暦の五月ですから、現在の暦に置き換えるとほぼ六月。暑さも増し、生鮮物には腐敗の危険があります。この時期、安心して食べられる生ものと言えば、琵琶湖の魚だったのではないでしょうか。確かに饗応膳には琵琶湖の魚がコンスタントに登場しています。

 

 この中にあって、海産物として鯛が度々登場しますが、この中には、鯛の加工品が多く含まれているようです。そしてもう一種類、複数回登場する海産食材があります。鱧です。

 

  鱧は十五日の「をちつき」二の膳に「はむ(鱧)」、十六日の「御あさめし」よ善(朝飯四の膳)に「大はむ(大鱧)」、十六日之夕三膳に「さんせうはむ(山椒鱧)」の三回も登場します。おそらく、何れも生の鱧に、味噌をベースとした「すめみそ」「たれみそ」等の調味液を塗りながら、或いは浸して焼いたものと思われます。「山椒」が最後に登場しますが、山椒が季節の食材であると共に、二日目の晩ですので、鮮度落ちした鱧の臭みを消す効果を狙ったのではないでしょうか。

 

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饗応膳「をちつき」二の膳
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饗応膳「鱧の焼き物・こうたて」

 

 鱧は、鰻科に属する、沿岸部に生息する大型肉食魚で、京料理に欠かせない食材として扱われています。その名前は、よく咬みつくことから「食む」(はむ)が変化した呼称という説もあります。確かに口には恐ろし気な歯がたくさん生えており、活きた鱧を扱う際には十分な注意が必要だそうです。

 

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活〆鱧

 

  この鱧ですが、京都の祇園祭や、大阪の天神祭りには欠かせない食材として知られていますが、一歩関西を離れると、「骨が多くて食べにくい」ということで、かまぼこなどの加工食品の素材としては利用されますが、鮮魚ではほとんどど出回らない、関西好みの食材のようです。確かに、オオヌマズも関西に足を踏み入れるまで鱧は、食したことはありませんでした。

 

 鱧には硬い小骨がたくさんあることから、「骨切」の前処理が不可欠で、骨切専用の「骨切包丁」が料理屋さんの必需品となっています。確かに鱧は美味しい。しかし下処理が面倒くさい。こんな厄介な食材が何故、京料理の定番として定着したのでしょうか。理由は単純です。鱧は非常に生命力の強い魚で、活きた鱧を濡らした紙等で包んでおくと、かなり長時間活きているとのことです。また、白身の魚ですので、鮮度落ちも比較的遅い事もその理由と思われます。

 

 海から離れた夏の京都で、新鮮な海産物を饗しようとすれば、必然的に鱧に行き当たり、この鱧を少しでも美味しく食べるために、骨切の技術が生まれた。また、鱧には梅肉がつきものですが、これも、鮮度が落ちた鱧を安全に食べるために、必然的に生まれた技術かもしれません。

 

 信長は光秀に対して「家康を料理の力で圧倒しろ!」と命じ、これに光秀は最大限に応えました。その一つが、夏の新鮮海産物「鱧料理」だったのではないでしょうか。勿論、現代は冷蔵技術が進歩していますから、様々な調理で鱧を楽しむことができます。

 

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鱧の落とし
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焼き鱧
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焼き鱧と梅肉
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鱧巻き天
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鱧ザク

 初夏の味覚を楽しむ会を2020年6月17日に東近江市五箇荘の「納屋孫」で開催します。様々な初夏の味覚の中には、当然のことながら「鱧」も含まれます(初夏の地酒も)。興味のある方は「納屋孫」0748−48−2631にお問い合わせください。

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